会長の”三行日記”
2016.01.26
歌舞伎 No.2800
日曜日、東京の浅草公会堂に歌舞伎を観に行ってきました。新春浅草歌舞伎というもので、社会保険協会が募ったバスツア-に家内と共に便乗させてもらったのです。この歌舞伎見物は私にとって初めての体験だけに、結構、新鮮でワクワクしていたものです。
1月2日にスタ-トした新春浅草歌舞伎は翌々日の26日が千秋楽ということや、休日の日曜日とあって客席は溢れんばかりの人で満員となっていました。出演者は尾上松也さんや中村隼人さんといった、新進気鋭の若手役者です。
私は歌舞伎に詳しくないから全然その名も知らなかったのですが、これらの役者さん、結構人気があるみたいです。最前列にはお馴染さんでしょうか、熱烈なファンが陣取っていました。
昼の部に行ったのですが、出し物は三人吉三巴白波、土佐絵、与話情浮名横櫛といった三話というか、三幕で構成されていました。最初はお嬢吉三、お坊吉三、和尚吉三といったお馴染みの三人吉三の物語です。
この三人、知らなかったのですが皆、盗賊なのですね。「月も朧に白魚の...」というお嬢吉三の名台詞から始まった後、お坊吉三が現われ、奪った百両の金を巡って二人が斬り合いを始めたのです。
そして花道から和尚吉三が登場し、二人の諍いを仲介し、三人が義兄弟の契りを結ぶという一場面なのですが、私たちには予め貸してもらっていたイヤホンガイドがあったので、逐一その詳しい説明が耳から入ってきていたのです。
これなら歌舞伎を全く知らない私のような者でも楽しめるというものです。こうしている間に第1幕も終わり、配られた弁当を客席についたまま頂きました。事前に仕入れていったお酒をチビチビ飲みながらで、もうすっかりご機嫌です。
その間、歌舞伎などはやはり古来からの日本独自のものらしく、お客の座席まで弁当や土産物など売りに回って来るのです。この辺が洋物とは少し違った日本らしい風情を漂わせているものです。
こうして最後は昔流行った春日八郎さんの歌ではないのですが、お富、与三郎が再会する「源氏店の場」での有名な場面です。「イヤサ、お富、久しぶりだなあ」という名台詞も登場し、江戸風情を味わえる粋な世話物を楽しませていただいたわけです。
歌舞伎を初めて観たわけですが、決して違和感はありませんでした。むしろ三幕に分かれた舞台のセットもとても綺麗で、特に二番目の土佐絵など、新春に相応しい艶やかなものだったと思います。やはり伝統ある古来からの芸能だけに、しっかりとその重みと風格が感じられたものです。
2016.01.25
10年ぶりの日本人優勝 No.2799
22日は納品等の業務でカキコミができず、ご容赦ください。それにしても寒いですね。日本上空を覆っている強い寒気団の影響で、日本列島全般で冷え込んでいるようです。聞くところによると、沖縄でも雪が降ったと言われ、実に39年ぶり史上2回目とのことです。
もっとも沖縄は別としても、これが本来の冬の天気なのでしょう。くれぐれも風邪などひかぬようご自愛頂きたいと思います。さて、大関・琴奨菊が大相撲初場所で見事、初優勝を飾りました。千秋楽、大関・豪栄道を倒し、14勝1敗という見事な成績での優勝でした。
ちょうど東京からの帰り、海老名のサ-ビスエリアでこの一番を観たのですが、多くの人がこの画面に貼り付いていて、勝った瞬間、大変な騒ぎでした。それはそうでしょう、日本人力士が優勝を飾るのは実に10年ぶりと言われているからです。
朝青龍から始まって白鵬、日馬富士、鶴竜、旭天鵬、照ノ富士のモンゴル勢と、琴欧洲、把瑠都のヨ-ロッパ出身の二人という、外国勢しかその間、優勝していなかったのです。ですから私たち日本人からすれば待ちに待った優勝だったのです。
これで国技館に飾られている優勝力士の写真を掲げた優勝額にも、やっと1枚、日本人が入ることになります。やはり嬉しいですね。それにしても14日目を終わり、ただ一人1敗を堅持した琴奨菊関のプレッシャ-は相当なものだったと思われます。
それだけに重圧に打ち勝った自信は今後に繋がるのではないでしょうか。そんな関取に失礼なのですが、今場所誰がその優勝を予想できたのでしょうか。おそらくほとんどいなかったものと思われます。むしろ場所前の期待はライバルの稀勢の里にかかっていたくらいです。
そんな中からの優勝は誰よりも本人が一番嬉しいのではないでしょうか。何よりも過去に相次ぐケガの影響もあり、カド番を5回も経験していることからも、ここまで決して平穏な道のりではなかったからです。
苦難を支えてくれたのは昨年7月に結婚した、祐未夫人がいたからとも伝えられています。その同じ7月の名古屋場所、5度目のカド番で12日目を終え、5勝7敗という絶対的なピンチを迎えていました。
満足に稽古もできないまま出場して結果が出ないことから、本人は引退まで考えていたと言います。それを土壇場で踏ん張れたのもこの夫人のお陰だとも言われます。何とか勝ち越し大関残留を決めた後は、体幹や下半身を強化した新たなトレ-ニングを採り入れ、プラス思考も身に付けたと言われています。
また家に帰れば、栄養に配慮した食事や楽しい会話で癒やしてくれる祐未夫人の存在があるわけです。やはり内助の功に優るものはないものです。その夫人とも今月30日に結婚披露宴が開かれるということで、二重の喜びとなったわけです。是非、来場所にこの巡った来た絶好のチャンスを生かしてもらいたいものです。
2016.01.21
夕やけその2 No.2798
昨日の続きです。「そんな...ぼくがドロボ-みたいなことをしたら、かあちゃんがビックリするよ。かあちゃん、泣いてしまうもン...」私はその時、土手にすわって、彼に謝ったのです。私は、いや、私だけではなく、院長も保母も、みんな戦災孤児の名を彼にかむせていたのです。
それは常識でもあったのです。でも、ア-坊には通用しない常識なのでした。彼は母親の遺体を見ていない。だから「孤児」ではないのです。私は、自分も幸せな生い立ちではなかったから、あきらめることに慣れていたのかもしれない。
ア-坊や、そして多くの孤児たちに協力(?)して、あきらめることを、かしこい分別だと思っていたのじゃないか?それは「負ける」ことだったのです。ア-坊の脱走は、それからも続きました。何回も何回も...です。そして私は、迎えにゆくのです。何回も何回も。
彼の行く先は、わかっているのだから、私は時間を計って、バスや電車を利用して行けばいい。時には、私が先に言問橋に着いてしまうこともありました。私は橋の下へかくれて彼を待つのです。やがて、彼は、歩きつかれて、ほとんどよろめくようになって到着しました。
しかし私は、かくれたままでいます。せっかく大変な努力で辿り着いたものを、すぐつかまえてしまってはと思うからです。しばらく好きなようにさせておいてやろう...。そ-っと見上げてみると、彼は橋の袂にしゃがんで、石ころをいじったりしているのです。
そうして待っていれば、あの時、手をはなしてしまった母親が、うしろから背中を叩いてくれると信じきっているように...。やがて、こっちが辛抱できなくなり、「さ、ア-坊、もういいだろ?もう帰ろうよ」と手をさしのべると、ほんとうなら、抵抗するか泣き出すところだろうに、毎回同じことのくりかえしだから、照れくさそうに笑って、素直に帰ってきてくれたのです。
「夕やけ小やけ」を歌いながら、土手を歩いて帰ってきたのです。「夕やけ小やけ」は、子どもを愛した人が作った歌にちがいない。日本には、子どものために作られたこんないい歌があるのに、日本の子どもはどうして不幸せななのか。
”お手々つないでみなかえろ、カラスと一緒にかえりましょ...”というのだけれど、ア-坊が帰っていったのは、かあさんの待つ家でなく、衣食も不足の汚い貧しい施設だったことを思うと、永い歳月を重ねたいまも涙が流れます。
いつだったか沼津の町を歩いていて交差点を渡っている時、広告塔(?)から、いきなり「夕やけ小やけ」のメロディが流れてきました。当時(いまは知りませんが)、沼津の街に夕方流れるのが「夕やけ小やけ」だったのです。
私はハタと足が止まってしまい涙滂沱(なみだぼうだ)です。うしろから来た人が「急に立ち止まっちゃあぶないよ」というので、詫びるつもりで、ふりかえった私の顔の涙にびっくり、「イヤ...そんなに怒ったわけじゃありません」と逆に頭を下げられたものです。
ア-坊は、もういいオッサンになっているはずですが、その時、私は8歳の、そうです、8つのア-坊の手を引いていたのでした。いまどうしているのか、消息はつかめないけれど、かならず、子どもを愛し、子どものために、絶対の平和を死守する人になっていてくれると、私は信じているのです。
敢えて私がどうのこうの言わなくても、読んだだけで心温まる話です。
