社長の三行日記

2011.01.31

団結による優勝 No.1946

アジアカップで、とうとう日本が優勝を勝ち取りました。ちょうど土曜日から日曜日に変わろうとした深夜の午前零時、決勝の対オ-ストラリア戦のスタ-トが切って落とされました。
 
翌日が日曜日の休みとあって、前回の韓国戦同様、また多くの日本中の人達がテレビの前に釘付けとなったのではないでしょうか。そしてゲ-ムは私たちの期待以上に、目の離せない白熱したものとなりました。
 
やはり、戦前に予想されたとおり、オ-ストラリアは高いし、ベテラン揃いで強いチ-ムでした。ですから、それまでの試合では日本がここまで変わったのかと感心した、速い正確なパス回しも思うようにいかなかったのではないかと思われます。
 
こうしてオ-ストラリアに決定的なチャンスが3度ほどあったのですが、キ-パ-川島選手の咄嗟の機転がきいた反応で、何とか凌ぐことができたのです。
 
そして90分では決着がつかず、延長の前後半各15分に突入したのですが、後半開始直後の4分、延長戦から代わって出ていた李選手が、ものの見事なボレ-シュ-トを決めてくれたのです。
 
見事な日本の優勝だったと思います。そして何と言っても最高殊勲はザッケロ-ニ監督ではなかったでしょうか。聞くと今大会、日本は25人の選手中、23人も試合に出場したと言うのです。
 
また初戦では先発ではなかった岡崎選手をはじめとして、伊野波、細貝、そしてこの李選手と、交代した選手が貴重な得点を挙げたのも見逃すことができません。
 
ですから面白いと思ったのが、一番日本人らしくないザッケロ-ニ監督が、一番日本人らしいチ-ムの和だとか団結の力を重視したことです。選手が後で語っているように、この大会、初戦思わぬ引き分けの後、練習前にも長いミ-ティングを開き、十分コミュニケ-ションをとっていたようです。
 
それとただ守るだけではなく、攻撃的サッカ-を導入し始めているのも、この監督の手腕です。時には臨機応変に、特に決勝の途中、藤本選手を岩政選手に変えたのも、ただ守りを重視するだけでなく、それによって長友選手が生きてくるような戦術も考えていることです。
 
それにしてもこの長友選手、よく走る素晴らしい選手ですね。本田選手がMVPを獲りましたが、私はこの長友選手でもよかったのではないかと思っています。
 
翌日のテレビでも伝えられていましたが、このゲ-ム、長友選手の走った距離は何と15km以上にも及ぶそうです。また学生時代は正選手ではなく控えの為、一時期、サッカ-を辞めようかと思った時期もあったと言います。
 
そうした辛い時期を乗り越えたからこそ、今日の栄光が待っていたのではないでしょうか。「禍福は糾える縄の如し」人生悪いことばかりではありません。この日本サッカ-に私たちも勇気と感動をいただき、これからに生かしていかなければいけません。とにかくアッパレな日本チ-ムの勝利でした。

2011.01.28

ちょっと良い話part70 No.1945

今年の冬は本当に厳しい寒さが続いています。そんな中でも雪の降らない我が地域は恵まれているとも言えるものですが、北陸や日本海側の地方では主要幹線道路もストップしてしまうほどの、豪雪に見舞われていると伝えられています。
 
この季節の到来前に気象庁の出した、厳冬という事前予報が残念ながら的中してしまったわけですが、過日の新聞に「ぬくもりがつながって」という心温まる記事が載っていました。
 
それは元旦の朝のことです。日本海を望む鳥取県琴浦町に住むGさんは、いつもと同じ午前6時前に目を覚ましました。大晦日から降り続いた雪は、もう腰の高さまで積もっていました。

こんなに積もるのは初めてと思いながら石油スト-ブに火を入れたその時でした。トントントン、入口のサッシをたたく音がして、開けると50歳くらいの女性が真っ青な顔で立っていました。

「すみませんが、トイレを貸してもらえませんか」聞けばこの先にある国道9号線で、車が立ち往生していると言います。すがる思いでポツンとともる灯りを頼りに、雪の中を訪ねてきたのです。

「こらぁ大変だ」見たこともない長い車列に驚き、仕事上のトイレを使ってもらおうと決めました。こうして人口1万9千人の琴浦町の人たちは、いつもと違うお正月が始まったのです。

高速を使わない大型トラックが普段から多い国道9号は、大晦日は帰省や観光の車で更に混み、そこを吹雪が襲いました。スリップした大型タンクロ-リ-が道をふさいで渋滞が始まり、約25km、車1千台が立ち往生したのです。

看板工房を営むGさんは仕事柄、看板作りはお手の物。1m四方の白いベニヤ板に赤いテ-プで「トイレ→」と書いた看板を作り、国道脇と自宅前に立て掛けました。

次々と人がやってきました。赤ちゃんを連れた若い女性は、ミルク用のお湯が欲しいと小さなポットを持ってやって来ました。「寒かったろうに」長男のTさんは毛布を持ち出し、お湯と一緒に手渡しました。

「ありがとうございます」女性は何度も頭を下げて車に戻りました。またパン屋を営むKさんは入っている消防団から安否確認を頼まれ、渋滞の車を1台ずつ窓をノックして回りました。

空腹をあめ玉でしのぐ子どもがいたり、ガソリンが十分なく暖房がつけられない車もあったので、すぐに母に電話をしました。「ありったけの米を炊いてくれ」こう言って公民館から大きな釜を2つ借り、自宅にあった1俵半の米を全部炊いたのです。

近所の女性にも役場に集まってもらい、疲れをとってもらおうと塩を少し多めにおにぎりを作り、配り歩きました。汗だくになり、一度着替えて夕方まで掛かって配り終えました。

「目の前に困っている人がいたから...。お互い様じゃけね。」またトイレを借りに来る人にコ-ヒ-を振舞った喫茶店店主や、阪神大震災で家が半壊した、神戸市から帰省中の人も、日が落ちてからも首に懐中電灯を下げ、「バナナいりませんか」と声を掛けて歩き回りました。

「寒さ、空腹、不安を感じているのは、あの時と同じ。自分だけぬくぬくとはできへん」との思いからです。「琴浦はそんな土地柄です」と、国道沿いでまんじゅう店を営み、自らもまんじゅう1200個を配ったYさんはこう語っています。

 
何とも心温まる話ではないでしょうか。この琴浦町の人々は元日に一日飛び回っていて、おせちを食べるのも忘れていたと言います。私たちの知らないところで、こんなに素晴らしい活躍をされている方がいるものです。まだまだこの日本も捨てたものではないと、明日に繋がる少し嬉しいお話でした。

2011.01.27

映画「わが母」の支援 No.1944

昨日、地元の生んだ大作家でもある、井上靖さん著書の「わが母の記」を原作とした映画が、この2月からクランクインすることから、その映画「わが母」を支援する会が立ち上がりました。
 
監督は「突入せよ!あさま山荘事件」や最近の日航機墜落を題材とした「クライマ-ズ・ハイ」を手掛けた原田眞人監督です。井上靖さんに加え、この原田監督が沼津出身であることから、栗原沼津市長や伊豆市長が呼び掛けの発起人となり、その支援する会が設立されたのです。
 
その第1回設立委員会は商工会議所で行われ、沼津市観光交流課と、地元のロケで街が元気になるプロジェクトとして活躍しているハリプロ映像協会が事務局となり、それぞれの方面から支援委員が顔合わせしたのです。
 
私もこの原田監督とは同級生の関係で、井上靖さんが出た沼津中学、また原田監督の出身校でもある沼津東高の、地元沼津・同窓会組織「沼津香陵会」の事務局長を務めることから、お呼びが掛かったことと思われます。
 
主にその支援内容としては、同映画のPR活動や支援資金の募金活動、また地元でのロケが増えることからの炊き出しや現場清掃等の撮影支援です。
 
またこの設立委員会には、映画制作に当たる松竹からも、執行役員やチ-フプロデュ-サ-などの方々が出席していました。自己紹介の中で、執行役員の方のお話で次のように述べられていました。
 
現在、日本で映画を観ているのが年間で延べ1億7000万人、その中で5000万人以上が50歳以上だと言われます。また映画が劇場や会館で封切られてから、ほぼ半年でDVDなどが出回り、1年でテレビ等に現われるとのことです。
 
そして映画「わが母」については、同会社の製作したヒット作「おくりびと」や「母べえ」同様に力を入れていき、希望目標500万人(70億)を目指したいと言われていました。もっとも次に述べられたプロデュ-サ-の話では、500万人は無理かもしれませんが、せめて100万人以上はと補足されていました。
 
尚、富士山の眺望も入るこの地域を扱った映画だけに、今年の5月ぐらいに仕上がった後、5月のカンヌ映画祭、9月のベネチア映画祭、来年2月のベルリン国際映画祭にも出品し、世界的にアピ-ルした後、劇場での公開は2012年4月以降になるそうです。
 
私もまだ原作を読んでいないことから、これからすぐ読まなければいけないものですが、どんどんと記憶が薄れていく母と、幼少の頃その母に育てられていなかった息子との、家族の愛を描いた感動作とのことです。
 
その中には、愛し続けることの素晴らしさや、生きることの喜びが描かれていると言います。またその母の名がたまたま八重ということや、晩年の記憶の薄れていく生い立ちということからも、私の亡くなったばかりの母とも満更、縁を感じないわけでもありません。
 
とにかく、ささやかなお手伝いしかできないかもしれませんが、映画「わが母」のヒットを祈り、少しでもお役に立てたらと願っています。

2011.01.26

ザック・ジャパン、激戦を征す No.1943

やあ、日本がやっと勝ちました。昨夜というか、日付が変わった夜中1時頃、アジアカップ、日本対韓国戦は前後半各15分の延長戦でも決着がつかず、PK戦の末3-0で日本が勝利を収めました。
 
この激戦の影響で、今日は寝不足の方が多いのではないでしょうか。中継したテレビ朝日の平気視聴率は何と35.1%と言われます。いつもなら途中眠くなって布団の中にもぐってしまうのですが、昨夜は不思議と眼が冴え、画面から目が離せなくなるほどの熱戦でした。
 
サッカ-の細かなことは何も知らない私がまた能書きをたれると、その道に詳しい友人からお叱りを受けるかもしれませんが、昨日の試合の一番の立役者はザッケローニ監督ではないかと思います。
 
というのは、延長戦の前半、日本が勝ち越しの2点目を挙げた際、PKとしては一度外してしまった本田選手を、決着のついたPK戦の最初のキッカ-に起用したことです。
 
この日本の2点目は本田選手がPKを外した後、細貝選手がこぼれ球を果敢に突っ込んで、何とか得点に繋げたのです。ですから一度外している本田選手を最初に起用するというのは、結構勇気が要るものでした。
 
ですが監督からはその信頼が厚かったのでしょう。そして日本のエ-スとして、自他共に認めさせる意味でも最初に起用したのではないかと思います。
 
この最初に蹴った本田選手の見事なゴ-ルは、それからの日本の選手に大きな勇気を与え、勢いづかせたものと思われます。またここで、一日の休みの違いが両チ-ムに出たのではないかと思います。
 
もちろん、GKの川島選手のファインセ-ブはありましたが、韓国選手は延長戦で力を使い果たし、もういっぱい、いっぱいだったように見えました。これが予想外の3人連続で外すという結果に繋がったのではないでしょうか。
 
それにしても、延長の勝ち越しゴ-ルを決めた後の日本は、前線を下げて守りに終始し、ちょっといただけなかったですね。解説の松木さんが言っていたように、守備陣を下げ、その数を増やしたからと言って、相手の攻撃を防げるというものではありません。
 
ですからボ-ルを持ってもパスが繋がらず、また味方の選手も少ないだけに、それまでの攻撃が影を潜めてしまいました。これでは観ていて面白いものではなく、最後の最後で相手に掴まってしまったのです。
 
やはり「攻撃は最大の防御なり」ということでしょう。虎の子の1点を守って逃げ切るのではなく、さらに追加点を挙げるようなサッカ-を、次の決勝戦では是非見せてもらいたいものです。でもよく頑張りましたね。宿敵・韓国に勝てて何よりです。

2011.01.25

やはり人気店は違う No.1942

この日曜日に母親の49日法要も済み、やっと通常の生活に戻りつつあります。それまで何かと後始末やらお礼の準備等もあり、落ち着かない日々だったように思えます。納骨も終わり、新調した仏壇にもお上人さんから魂入れをしていただき、亡き母親もこれで居場所ができたのではないかと思われます。
 
さて、そんな日曜日の夕方のこと、法要の会食から家に戻り、子ども達と内輪だけの集まりになった為、夕飯は目先を変えて軽めにしようとのことになり、娘たちがマクドナルド(マック)に買入れに出掛けました。
 
それぞれが好きなものをオ-ダ-し、私も欲張って今、期間限定で売り出しているビッグバ-ガ-のテキサス2バ-ガ-なるものをセットで頼みました。
 
そしてこの買出しから家に戻り、さあ食べようと袋を開けたところ、娘達が頼んだチキンナゲットは2つあるものの、そのソ-スが付いていなかったのです。
 
やはりこのソ-スがないと折角の味わいが損ねるとのことで、早速、電話でその旨、問い合わせていました。そしておよそ30分ぐらい経ったでしょうか、こちらの家の住所も調べて、その不足のものを届けてくれました。
 
こちらはソ-スだけで、わざわざ届けてもらうのも大変だなと思っていましたが、届けて頂いた袋の中には先に買ったナゲットとは別に、もう2つ新しいチキンナゲットがソ-スと一緒に入っていたのです。
 
娘に聞いてみると、店員さんの話では「申し訳ありません。先の物は時間が経ってしまった為、おいしくないでしょうから、新しいものをお作りしてきました」とのことらしいのです。
 
ここがやはり違うのですね。届けていただいたものはソ-スだけではなかったのです。考えてみると、届けるのは大変かもしれませんが、それに新たに2つ作って添えるのはお安い御用です。
 
こうすればお客様は悪い気がしないどころか、さすがはマックと感ずることができます。そのちょっとしたサ-ビスが、私たち中小ではなかなか気付きません。
 
確かにうっかりミスだったかもしれませんが、自分達の失敗を前向きに活かし、新たなファン作りが為されているのです。さすがは人気店と言えるもので、こうした積み重ねが次々とリピ-トを生み出しているのでしょう。
 
蛇足ながら、欲張って私はテキサス...何がし、なるものを頼んでみたものの、セットで付いてきた飲み物とポテトを食べただけでお腹いっぱいとなり、とうとう食べずじまいです。やはり自分の背丈に合わせて、欲張ってはいけないものです。

2011.01.21

給食費滞納 No.1941

先日の新聞投書欄「声」に滞納給食費 初月給で払った子という記事がありましたので、ちょっと紹介させていただきます。
 
中学教師だった20数年も前のことだが、給食費は集金袋に入れ、決められた日に生徒が担任に届けることになっていた。

ところが袋を届けない生徒がいた。事務職員から「納金が滞ったら焦げつく」と強く注意され気になっていたが、その生徒はAだった。

この地方では、やりくり下手な主婦を「かまど持ちが悪い」という。Aの母親はそれだった。温和で誰からも好かれたAだが、このため納入日には下を向いていた。

担任の私も事務からの督促状を手渡すのは苦衷だ。Aはそのまま卒業し、私もそれを忘れていた。

数年たって事務職員が飛んできた。「Aが未納の給食費を払っていった」というのである。工業高校を終えて就職したAは、初のサラリーで滞納の全額を納めていったという。

Aからは今年も3人の子が並んだ年賀状が届いた。先日の新聞に「子ども手当から給食費の天引きを政府が検討」とあった。自覚のない親を持つ子どもには、天引きこそ朗報と思う。

 
とても考えさせられる、給食費の滞納問題でした。このAくんのように、滞納した全額を社会人になってから払うようなケースは、ごく稀なことと思われます。
 
もちろんその行為は真似のできない、評価されるものと思いますが、彼は在学中からずっとそのことが心に引っかかっていたのでしょう。
 
このことは彼を滞納していた事実以上に、大きな心の負担を掛け、苦しめていたとも言えるわけです。こんな罪な親はいません。
 
ですから、こうした滞納している家庭の親は、この子どもへの余分な負担をまず考えなければいけません。ある意味では私たち会社をやっている人間が、金融機関からお借りした金を、しっかり返さなければいけないことと同じようなことです。
 
近年、それまで返さないで勝手に会社をたたんだり、自己破産する人間が少なくありません。
 
如何なる事情があるにせよ、やはり、それが社会人として大きな欠陥であるのと同じに、子どもが給食を食べているのに払わない親は、厳しいが人間失格とも言えるのではないでしょうか。
 
来週の月曜日24日は工事で一日出張のため、カキコミを休ませていただきます。

2011.01.19

衰えを知らない河村旋風 No.1940

名古屋市からちょっと目を離せなくなっています。ご存知、河村市長の動きです。既にご承知の通り、河村さんは市民税10%減税の恒久化や議員の定数・報酬の半減を掲げ、反対する議会と対立し、名古屋市議会解散請求(リコール)の署名運動を行いました。
 
その結果、住民投票に持ち込み、また自らも市長を辞職して出直し市長選に改めて立つという、荒業に出ています。
 
伝えるところによると、この河村旋風が各陣営から「大衆迎合」との批判を浴びているものの、一向にその人気が衰えを見せないほどの勢いだとのことです。
 
2月6日に上記の住民投票と市長選の他、愛知県知事選を加えたトリプル選挙が行われることになっています。この知事選にも、盟友といわれる大村秀章衆院議員を担ぎ出し、民主・自民党の2大政党にも真っ向から挑んでいるものです。
 
その結果、この河村人気で民主・自民の対立候補も結構、大変な選挙戦を強いられているみたいです。民主党が反河村で市長選に立てた石田芳弘衆院議員も、街頭で市民に支持を訴えると次の言葉が返ってくるとのことです。
 
あかん。わしは河村だであかん」と断わられ、「なぜ」と問うと、「おもしれえがや。市議会混乱させてまって、痛快だがや」という返事です。
 
また他の民主党県議も街頭で「たかしの邪魔すんな」と罵声を浴び「参議院選のときより逆風がひどい」とぼやいています。
 
一方の県知事選に立つ自民党の対立候補も同様で、同県連が強く推しているにもかかわらず、自民党を抜けた大村氏への支援をする国会議員が少なくなく、党本部推薦を見送ったほどです。
 
そうした動きもあることゆえ、結果は河村旋風が大きく影響をもたらすのではないでしょうか。とにかく、自身の市長報酬も極力抑えて奮闘している河村さんゆえ、市民には大きな説得力を持つものと思われます。
 
河村さんの次の言葉が全てを物語っているのではないでしょうか。「中核は議員報酬(の高さ)でしょう。市民の皆さん、安月給で何とか工夫しながらみんな生きとる。だけど議員さんは自分で決める。日本中に広がる政治に対する怒りがあった。
 
まず隗より始めよの言葉どおり、実践しなければ何も変わるものではありません。
 
明日20日は私用で一日休暇をいただきますので、カキコミは休ませて下さい。

2011.01.18

エ-ジシュ-ト No.1939

昨年の大晦日の朝日新聞、「ひと」欄に、ゴルフのエ-ジシュ-トを700回達成したという人が紹介されていました。植杉乾蔵さんという、熊本県人吉市の87歳の方です。
 
エ-ジシュ-トとは自分の年齢と同じか、それ以下のスコアで1ラウンド回ってくることを言います。ですから通常のゴルフ場はパ-72か71ぐらいですから、アマチュアの領域では、少なくとも70歳を超えなければ達成しにくいものです。
 
従ってなかなかできないものですが、何とこの方はそれを700回も達成しているというから、驚異的な話です。記事によると、自動車会社を退職する55歳まで、プレ-は月に2回程度。外車販売を自分で始めると、連日ゴルフの誘いが舞い込んだそうです。
 
そして、そのうちゴルフ中心の生活となり、71歳の時に71で回って初の達成。80歳以降は年50回以上を重ねてきたとのことです。またベストスコアは78歳の時に出した70。力みのないスイングが持ち味で、最近の平均飛距離は200ヤ-ドと言われています。
 
87歳で200ヤ-ドも飛ばすというのも、また凄い話です。もっとも200ヤ-ド飛ばさなければ、70~80ぐらいの良いスコアでは上がれないものと思われますが...
 
またこうした年150ラウンドとも言われる、元気なゴルフ人生を支えるのが、元看護師で調理師の資格を持つという、69歳というちょっと歳の離れた奥さんの存在です。料理は徹底して薄味で、漬物の塩も抜くそうで、塩抜き砂糖抜きで、鬼嫁と呼ばれてもへこたれません。
 
ゴルフのプレ-もいつも一緒ということですから、仲も特別良いのでしょう。羨ましい限りです。その植杉さんへの周囲の期待は1000回達成とのことです。
 
この人なら元気で健康でいてさえいれば、それも不可能な数字ではないかもしれません。その極意は「細かいことは考えない。パットも入らないのが当たり前と思えばイライラせんよ」とのことらしいです。
 
また年齢が高くなればなるほど出しやすいことから、この方の言われる言葉がふるっています。「う-ん、トシはとりたいねえ」1回もたぶん達成できないと思われる自分にとっては、何とも憎い、お言葉です。

2011.01.17

我が国の不安な行方 No.1938

あの大震災から16年の月日が過ぎ去りました。その年に生まれた方がもう高校生になっています。他人事ではなく、いつやってくるか判らないだけに、その教訓を活かさなければいけないと思っています。今年が17回忌にも当っていることから、犠牲者のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
 
さて菅内閣の改造があり、その目玉であった仙石さんが抜けてしまいました。党代表代行に新たに就任とのことですが、このポストもお飾りのようなものでしょう。
 
仙石さんが抜けてしまった菅内閣は果たして大丈夫なのでしょうか。というのも実質は仙石内閣のようなものと言われていたからです。菅総理は長いこと野党にいたせいか、人の批判や他人の作った政策への突込みには長けていたものの、自分で作り出したり、その調整能力には疑問視されているからです。
 
それからもう一つ、納得できないと巷でも多くの声が聞かれるのが、与謝野さんの経済財政担当相就任です。この人、前回の衆議院選で反民主を叫び、東京の地方区に敗れて、比例で復活当選を果たしたのです。
 
ですから当時いた自民党のお陰で、復活当選し議員となれたのです。またその同じ選挙区で与謝野さんに勝ったのが、今回その経済財政担当相から経済産業大臣にポスト変更となった海江田万里さんですから何とも皮肉なものです。
 
これなども海江田さん自身が言われているとおり、「人生は不条理ということです」との言葉を裏付けるようで、これから先の国会運営でも、自民党はじめ、抜けた「立ち上がれ日本」など野党の大きな標的となって、新たな問題人物になるような気がします。
 
またそれと与謝野さんと言ったら、増税論者であることも気になるところです。これで消費税アップとなる動きが加速することになるのではないでしょうか。
 
とにかく、この第2次菅内閣の組閣も、一先ず野党の矛先をかわそうと目先を変えただけのようで、この先政局がスム-ズに進むものとも思えません。
 
そうすると、我が国はこの先、いったいどのように進んでいくものでしょうか。今の高齢者が将来的不安でお金を使えないことと同じように、国民の大多数にまでそれが及んでいくようで、何とも先が見通せない不安な気持ちが募るものです。

2011.01.14

ちょっと良い話part69 No.1937

今年初めてのちょっと良い話です。残っていた留守番メッセ-ジという、泣かされるいい話を見つけましたので紹介します。
 
私が結婚を母に報告した時、ありったけの祝福の言葉を言い終わった母は、私の手を握りまっすぐ目をみつめてこう言った。「私にとって、澪は本当の娘だからね」ドキリとした。

母と私の血がつながっていないことは、父が再婚してからの18年間、互いに触れていなかった。再婚当時幼かった私にとって『母』の記憶は『今の母』だけで、『義理』という意識は私にはなかった。けれど、やはり戸籍上私は『養子』で、母にとって私は父と前妻の子なので、母が私のことをどう考えているのか、わからなかった。

気になってはいてもそのことを口に出した途端、互いがそれを意識してちぐはぐな関係になってしまいそうで、聞き出す勇気は私にはなかった。だから、母の突然でまっすぐな言葉に私は驚き、すぐに何かをいう事ができなかったのだ。

母は私の返事を待たずに「今日の晩御飯、張り切らなくちゃだめね」と言い台所に向かった。私はその後姿を見て、自分がタイミングを逃したことに気がついた。そして、「私もだよ、お母さん」すぐそう言えば良かったと後悔した。

結婚式当日、母はいつも通りの母だった。対する私は、言いそびれた言葉をいつ言うべきかを考えていて、少しよそよそしかった。式は順調に進み、ボロボロ泣いている父の横にいる、母のスピーチとなった。母は何かを準備していたらしく、司会者の人にマイクを通さず何かを喋り、マイクを通して「お願いします」と言った。

すると母は喋っていないのに、会場のスピーカーから誰かの声が聞こえた。「もしもし、お母さん。看護婦さんがテレホンカードでしてくれたの。お母さんに会いたい。お母さんどこ?澪を迎えに来て。澪ね、今日お母さんが来ると思って折り紙をね…」

そこで声はピーっという音に遮られた。「以上の録音を消去する場合は9を…」と式場に響く中、私の頭の中に昔の記憶が流水のごとくなだれ込んできた。

車にはねられ、軽く頭を縫った小学校2年生の私。病院に数週間入院することになり、母に会えなくて、夜も怖くて泣いていた私。看護婦さんに駄々をこねて、病院内の公衆電話から自宅に電話してもらった私。この電話の後、面会時間ギリギリ頃に母が息を切らして会いに来てくれた。

シーンと静まりかえる式場で、母は私が結婚報告したのを聞いた時と同じ表情で、まっすぐ前を見つめながら話し始めた。「私が夫と結婚を決めたとき、互いの両親から大反対されました。すでに夫には2歳の娘がいたからです」

「それでも私たちは結婚をしました」「娘が7歳になり、私はこのままこの子の母としてやっていける、そう確信し自信をつけた時、油断が生まれてしまいました。私の不注意で娘は事故にあい、入院することになってしまったのです」

あの事故は、母と一緒にいるときに私が勝手に道路に飛び出しただけで、決して母のせいではなかった。「私は自分を責めました」「そしてこんな母親失格の私が、娘のそばにいてはいけないと思うようになり、娘の病院に段々足を運ばなくなっていったのです。今思えば、逆の行動をとるべきですよね」 

そこで母は少し笑い、目を下におとして続けた。「そんなとき、パートから帰った私を待っていたのは、娘からのこの留守番電話のメッセージでした」「私は『もしもし、お母さん』。このフレーズを何度もリピートして聞きました。その言葉は、母親として側にいても良い、娘がそう言ってくれているような気がしたのです」

初めて見る母の泣き顔は、ぼやけてはっきりと見えなかった。「ありがとう、澪」隣にいる父は、少しぽかんとしながらも、泣きながら母を見ていた。きっと、母がそんなことを考えているなんて知らなかったのだろう。私も知らなかった。

司会者が私にマイクを回した。事故は母が悪いわけじゃないことなど、言いたいことはたくさんあったけれど、泣き声で苦しい私は、言いそびれた一番大事な言葉だけを伝えた。
「私もだよ、お母さん。ありがとう」

 
血の繋がり以上の深い絆が感じられ、何とも言葉がありません。「生みの親より育ての母」そのままですね。朝の連続ドラマ「てっぱん」でも、育ての母に当たる安田成美さんがいい役を演じてます。
 
与えられた絆はもちろん守っていかなければいけませんが、やはり自分自身で大きく育んでいかなければいけないものです。

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