会長の”三行日記”

2011年05月

2011.05.31

JRA史上最高配当額 No.2017

3歳馬の日本一を決める今年のダ-ビ-は、オルフェーヴルが先の皐月賞に続き、制覇しました。これで2冠馬となったわけですが、台風の影響で雨が降りしきる中、不良馬場の悪コンディションをものともせず、堂々たる勝利でした。
 
このレ-ス前、騎手の池添謙一さんは1番人気のプレッシャ-のためか、かなり緊張していたように見えましたが、いざレ-スに入るとじっと後方待機で末脚を温存し、直線で一気にその驚異的な脚力を見せつける、見事な手綱さばきだったと思います。
 
これで秋の菊花賞に向け、3冠制覇ができるかどうか楽しみになってきました。さてこのJRAで先週の22日、驚異的な史上最高配当額である1億4685万円という配当が飛び出しました。
 
1枚100円でこの配当ですから凄いものです。これは今年から新たに発売された新馬券、WIN5によるものです。WIN5はJRAが指定する5レ-スの勝ち馬を全て的中させる馬券で、この4月から始まりました。
 
ネットで投票するもので、この日は重賞の本命レ-ス・オ-クスで7番人気が勝つなど、2番・3番・10番・2番そして7番と、対象レ-スで本命がそろって敗れる波乱となりました。その結果が約1200万票の発売総数に対し、たった6票しか的中しなかったのです。
 
万馬券と言われ、100円の元手で1万円以上稼げる大穴はよく耳にしますが、これでは億馬券ということになります。外れが多いほど配当は高くなり、的中すれば歓喜が極まります。まさにギャンブルの極致とも言えるのでしょうか。
 
JRAのこの戦略は従来と比べて、パチンコなどと同様、ずっと運の要素を強くしたものと思われます。でも忘れていけないのは、この収益からほぼ8億円が震災支援に回されていると聞きます。
 
このように聞くと、まんざら競馬で楽しむのもただの一人遊びとも言えません。普段は競馬などほとんど知らない私ですが、オルフェーヴルのような強い馬が出現すると、昔のハイセイコ-やテンポイント、オグリキャップ同様、少し追っ掛けてみたくなるのも事実です。

2011.05.30

ポピュリズム No.2016

23日の衆院復興特別委員会で、たちあがれ日本の園田博之幹事長が質問に立った様子が記されていました。たった15分の質問時間でしたが、菅首相や、政権政党である民主党にとっては痛いところを突かれた、鋭い質問ではなかったでしょうか。
 
首相に向かってこう切り出したそうです。「あなたは首相を辞めるべきだ。当初は期待したが、場当たり的な判断が続いた。大事な決定がポッと出てくる。このままでは日本の針路を間違える。

それと民主党全体にも通じることだが、政策を決める動機が『国民に受けるかどうか』になっている。
ポピュリズム(人気取り)だ。反対があっても、大事なことを薦めていくのが政治の責任ではないか
 
この園田氏と菅首相は新党さきがけ以来の、20年近い付き合いでもあるそうです。いわば同士とも言える園田氏に、ここまで言われる菅政権は完全に死に体とも言えるのではないでしょうか。
 
十分な根回しがなく、思いつきのような発言があまりにも多いものです。今回のサミットにしても、日本中の家1000万戸にソ-ラ-パネルを設置して、自然エネルギ-による発電比率を2020年代に20%にする政策を述べましたが、関係省庁である経産省の大臣・海江田さんは全く知らなかったようです。
 
そしてもっとまずいのは、言うばかりで何も実行に移していないことです。先週の金曜日、法人会総会・記念講演で述べた屋山太郎さんも以下のように酷評していました。
 
TPPの政策にしたって、言うばかりで全く自分から動こうとしない。そして致命的なのは民主党全体を指すものだが、外交路線だと言われます。鳩山さんが米国寄りの今までの姿勢から離れた途端、中国はアメリカの脅威がとれ、尖閣沖の例の漁船体当たり事件です。
 
そして同様にソ連までが北方4島を過去の慣例から外れ、我がもの顔のように振る舞う始末です。財源がないのに子ども手当ての支給、高速道路の無料化、また農家への戸別所得補償制度を打ち出すのも、人気取り政策以外の何ものでもないと指摘します。
 
でもこの菅さん、ひょっとしたら来年の党首選まで粘るかもしれないと言われていました。恥とかそういった類のものを全く感じていないからです。ここで野党から出てくる内閣不信任案にしても、菅さんだったら内閣総辞職より衆院解散をやりかねないと言われます。
 
そうすると民主党の惨敗は目に見えていて、不信任案に賛成な民主党議員は公認も得られないことから次回は落ちる見込みです。従って、政治生命をほぼ絶たれているとも思える、小沢さんと心中する議員は最終的には案外少ないのではないかということからです。
 
とにかく、屋山さんも言われていたとおり、国家観も歴史観もない政治家があまりにも多すぎるということです。大震災が起こってから2ヶ月以上も経った今、未だに体育館などで避難所暮らしをさせている政治はおかしいという思いに全く同感です。
 
何は置いても、まず優先してやらなければいけないことがあるのではないでしょうか。それはサミットに行って、ええ格好することでもなく、また被災者を尻目に、政治家が集まり誕生会などやることとは全然違うことなのです。

2011.05.27

早寝の習慣 No.2015

昨日は5月連休の代休で一日休ませていただきました。カキコミができず、申し訳ありませんでした。さて、「早寝の習慣、妻は不満らしい」という、こんな面白い投稿が新聞にありましたので紹介させて下さい。
 
たいてい午後7時半までに就寝する。9時過ぎて起きていることなど、めったにない。宵っ張りの妻には、これが不満らしく、午後8時に私あての電話があると、「風邪気味で早めに休んでいます」などと言い繕うらしい。

「もう寝ている」と正直に告げればいいものを「恥ずかしくて言えない」と言い張る。早寝のどこを恥じることがあるというのだろう。

昔々の話。東京から帰省中の弟に友人から電話が入った。午後9時ごろだったが、あいにく弟は出掛けて留守。代わりに電話を取った父が、開口一番、「こんな夜中に非常識だ」と叱り飛ばしたものだ。

今はその父も、9歳年下だった弟までも彼岸の人。僕だけが此岸(しがん)でうろうろ、老残をさらしている。

先日、午後8時を少し回って、よんどころのない電話で起こされた。受話器を握った僕は、寝入りばなだったなんて、もちろんおくびにも出さなかった。

 
長崎県の65歳の方からの投稿でした。65歳のお歳で7時半に就寝とは少し早いような気もしますが、早寝の習慣は決して悪いものではありません。早く寝れば当然早起きにもなるわけですから、翌日の活動も早くスタ-トが切れるものです。
 
そんなわけで早起きするには早寝の習慣が不可欠とも言え、三文の徳にも繋がるわけです。ただ他に用がなければ構わないのですが、なんだかんだと用を済ませていると、あっという間に9時ぐらいにはなってしまいがちです。
 
私の場合は決して早寝というわけでもないのですが、どうしても犬の散歩等、朝早いものですから、晩酌でついつい量が過ぎるときなど、自分の意思とは無関係に、突然眠りに就いてしまいます。
 
そしてそのまま朝まで眠ってしまえばよいものを、人が眠る頃、目を覚ますことがままあります。こうなると今度はなかなか寝付けなくなってしまうわけで、とても始末が悪いものです。
 
こうした酔っ払いは嫌ですね。これなら投稿者のように、どんどん早く休んだ方がずっとよいわけです。でも私の場合、最近は老化現象のせいか、7時半に寝たらきっと夜中に一度起きてしまうでしょうね。ずっと昼下がりまで眠り続けていた若い頃とは、今では全く無縁で、その頃を懐かしく思い出すものです。

2011.05.25

坂本光司先生講演から No.2014

地元の信用金庫が主催する、夢企業大賞という、この地域で活躍している中小企業の優れた技術や、ビジネスプランへの表彰とプレゼンの場に参加してまいりました。表彰企業の取り組みを知りたかったのと、もう一つ、第2部で坂本光司先生の記念講演があったからです。
 
坂本先生はご存知のとおり、頑張る中小企業の応援団長のような方です。現在でも週に2日ぐらいは、様々な企業の取り組んでいる現場に足を運ばれているとのことですが、その講演について触れさせていただきます。
 
今回の講演は「地域に愛され、快進撃を続けている会社とは」との演題でお話しいただきました。冒頭、カリブ海から来た一人の女性について触れていました。西水美恵子さんと言って、元世界銀行副総裁として活躍された方です。
 
西水さんについてはネットでも少し調べさせていただきました。元々はアメリカのプリンストン大学で教鞭をとっていた方なのですが、あるとき世界銀行への誘いを受けました。
 
好待遇に加え、研究休暇として1年ならということで、軽く引き受けたつもりでしたが、運命的に彼女の人生を変えてしまうほどのことが、そこには待ち構えていたのです。
 
世界の貧困の現実に直面したのです。それからというもの、世界の貧困を失くしたいとの強い思いで活動が始まりました。ヒマラヤの東、高地3000mの地に人口80万人ぐらいのブ-タンという国があります。
 
GNH(国民総幸福度数)を追い求めている国で、住民の97%が幸せを感じている国と言います。西水さんはこのブ-タンを知らしめたことでも有名な方です。
 
坂本先生はカリブ海からやってきた西水さんを、磐田のある会社にお連れしたそうです。社員300人のコ-ケン工業という会社です。この会社はいつの日か世の為人のため貢献したいという、夢を追い続けている会社です。
 
この会社で働いている人には弱い立場の人が多いそうです。60歳以上が30%もいて、93歳の人を筆頭に83,81歳と、80以上の方も3人もいるとのことです。
 
93歳の方は松下さんと言われる女性ですが、先生は会社の中に入っていっても気がつかなかったそうです。そのくらい、会社の中に活かされて融け込んでいるとも言えるのです。
 
この松下さんが今から13年前、ちょうど80歳の誕生日を迎える数日前、事務所の真ん中に位置する社長の村松さんに相談があると訪れてこう言われたそうです。
 
私は80歳になる。これ以上勤めると皆に迷惑を掛けるかもしれない。もう退いた方がよいのではないか」と。これを聞いた村松社長は次のように答えたそうです。「あなたは会社には必要な人材です。もし体調が悪いのであれば、1日置きでも午後からでもよいから勤めて下さい
 
事務所には社長の他に大勢の社員の方がいます。大きな声でのやりとりですから、他の社員の方の耳にも当然届きます。会話は事務所中に伝わり、このやりとりを聞いていたほぼ全員が涙していたと言います。
 
何て優しい会社だろう、死ぬまでいたいと思える会社ではないか、こう思いながら先生と西水さんまでつられて涙を流したと言っていました。今回は講演のほんの触りの部分しか紹介できませんでした。続きはまた次回触れさせていただきます。
 
それにしても何て素晴らしい会社なのでしょう。この他にも5%に当たる15人の障がい者が働くと言います。またその大半は重度の障がい者なのですが、正社員として採用しているそうです。60歳以上が30%、そして障がい者が5%という数字は、まさにこの国の比率とピッタリです。
 
こうした定年のない会社(この会社では引退と呼ぶそうです)はこれからの日本の目指すべき方向ではないでしょうか。

2011.05.24

不運と不幸は別のもの No.2013

新聞に作家の津島佑子さんが書かれた「不運と不幸は別のもの」という記事が載っていました。被災地の皆さんへという欄で書かれたものですが、津島さんはあの太宰治さんの次女にも当たる方です。
 
太宰さんが亡くなったのは、津島さんが生まれてすぐ1歳の時というから、父親の顔も知らないで育ったのでしょう。ですからその文にも示されるとおり、母親の生き様から表題にある思いが一層強いものと思われます。
 
その記事を紹介します。人間は自分の経験の枠から大きくはみ出たことはなかなか想像できないと言われますが、私も自分の経験したことを足がかりにして、今度の大震災で被災した方々の思いに近づくことしかできないようです。

私は30年近くも前に8歳だった息子を失っているのですが、これだけの年月がたってもその存在は薄れることがないし、悔いも消えません。それが自分に与えられた生なのだろう、といつの間にか思うようになっています。当時、母から言われた言葉が今でも私を支えてくれています。

どんな不運に見舞われても、不幸になっちゃいけないよ。

この言葉を聞いたとき、私は奇妙なことに、ふと気が楽になったのでした。そうか、不運と不幸はちがうんだ、人間の力の及ばない不運はいくらでも起こりうる、だからといって、その人間が必ず不幸だと決めつけることはできない、と。

私の亡母は、夫の水死を経験している人でした。夫の遺体を見届けることなく、それから3人の幼い子供を育てなければならなかった母もまた、不運にぼうぜんとしていたとき、だれかに同じことを言われたのかもしれません。

ですから私も被災した方々にこの言葉をお伝えしたくなりました。どのような不運のなかにも、私たち人間にとって、不思議な希望はひそんでいるらしい、ということを。

 
津島さんは昭和22年3月30日の生まれです。翌年である6月13日の夜、父親の太宰治さんはご存知の通り、玉川上水に身を投じて亡くなったのです。
 
どんな不運に遭遇してもそれが不幸だと思ってはいけない、意味の深い重い言葉だと思います。津島さんは生まれつきの不運を乗り越え、顔も知らない父の力も借りることなく、その後、谷崎潤一郎賞や野間文芸賞を受賞するまで、立派に作家として活躍されています。
 
やはりあきらめてはいけませんね。昨夜もテレビの「鶴瓶の家族に乾杯」という番組で、被災地である石巻を訪れていました。以前やはりこの番組で石巻を訪れたことがあり、そのときの人たちの様子も心配されていたのです。
 
壊滅的被害を受け、店をもう1回やろうかどうか迷っていたお寿司屋さんの一人に、鶴瓶さんは「やり始めたら真っ先に飛んでくるから」と言って励ましていました。じっとしていても何も生まれません。辛くて本当に大変でしょうが、是非一歩前に踏み出してもらいたいと願っています。

2011.05.23

 

本日は一日工事で出張の為、カキコミは休ませていただきます。

2011.05.20

リ-ダ-不在 No.2012

月に1回送っていただいているレポ-トに、こう書かれていました。「日本人は民族として優秀な素質を持っていて、頭もよく気力もあり、仕事ができる。しかし指導者とか音頭取り、自分を率いてくれる者がいなければ何も決断、断行できない」と。
 
優れた思想家であった孟子は、その最大の特徴として、堂々たる生き方を示して後進を励ましたと伝えられています。以下のような言葉があります。
 
孟子曰く、文王(ぶんのう)を待ちて、しかる後に興(おこ)る者は凡民なり。かの豪傑の士のごときは、文王なしといえども猶(なお)興る
 
これに次のような解説がありました。文王は周の基礎をつくった聖王です。孟子が言いました。周の文王のような名君の指導を待って初めて感奮興起するのは凡庸な人民である。かの人並みはずれた豪傑の士などは、文王の指導と教化がなくても、自ら独力で興起するものである。
 
文王はトップリ-ダ-の代名詞です。その出現を待ってそれに引きずられて立ち上がるような、誰かが音頭をとって初めて動くのは凡民、一般大衆であると言います。
 
本当に優れた人物は、こうした率いてくれる人がいなくても自ら立ち上がるものである。よく政界に人材がいないのを嘆き、「自民党や民主党の若手に、これはという政治家はいませんか」と聞かれると言います。
 
その答えに、あの安岡正篤先生が50年前にこう論じているそうです。「古くは神武天皇に率いられて大和の国を平定し、地方豪族が馳せ参じ武門政治を勃興した。

源氏、北條、足利、織田、豊臣、徳川。その果てに錦の御旗を押し立てて明治維新をやった。すなわち日本民族の歴史はずっと『文王を待って』興ってきた。その意味では国民として凡民だ

 
そして冒頭の一説に続くわけです。ということは明治以来、我が国の歴史に刻むような優秀な指導者、人物は出現していないということになります。
 
これでは参議院議長である西岡さんが、いくら菅降ろしを一生懸命唱えてみたところで、これに続く人がいないわけです。確かに政府の今回の未曾有の災害に対しての、初期動作やその処置に問題がないとは言えません。
 
でも慣れていない民主党では、極論からすれば、誰がやっても同じだったのではないでしょうか。伝えるとことによると、西岡さんの菅憎しというのも、公的な立場というよりは、地元選挙区である諫早湾干拓問題の開門に関しての私的な事情もはらんでいると言います。
 
これだから今の政治家は小粒だと言われるのです。もっと日本の将来を大きく見据え、大局的見地から我が国がこの窮地をいかに脱し、どのような展開を進めていくか明らかにしてもらいたいものです。
 
ですからある意味では、この大災害に救われたとも言われる菅政権を倒すうんぬんより、政権同様、今できることに精一杯、全力投球してもらいたいものです。それが少なくない報酬を得る政治家としての使命と責務ではないでしょうか。

2011.05.19

ちょっと良い話part77 No.2011

久しぶりのちょっと良い話です。「10円玉の詰まった巾着」という話ですが、母の愛の大きさを感じさせてくれるものです。
 
携帯電話も、留守番電話もまだない黒電話時代。今から振り返って考えれば、想像を絶するような不便な時代も、それが当たり前と思って過ごしていた。そんな時代に青春時代を過ごした私の忘れられない思い出の中に、次のようなものがある。

その日は、朝から時雨の降る寒い寒い日で、私の志望校の入試日だった。一番苦手な科目が、午前の一科目めにある。終わった後、「もう、あかん・・。」と思った。「残りの科目、どんなに頑張っても、一科目めの失敗の挽回は、到底できへんやろう。」と思い、荷物をまとめて帰ろうとすら思った。

外の時雨は、いつしか牡丹雪に変わっていた。筆箱を鞄にしまいかけた私の目に弁当袋が留まった。「あんたの好物満載弁当、大傑作の出来栄えやから、絶対食べるんやで~!」

そう言って笑顔で送り出してくれた母の顔が目に浮かび、「弁当は、食べて帰るか・・。」と、弁当袋に手を伸ばした私は弁当箱の上に一通の封筒がのっているのに気がついた。

封筒の中に便箋が一枚。「母さんの声が聞きたなったら、いつでも電話しいや。今日は一日、電話の前に座ってるさかい。カバンの底の巾着のお金、好きなだけ使いなさい。見た目通りの太っ腹母より」

見れば、いつの間にか、カバンの底に小さな巾着が忍び込ませてあった。持ち上げると、ずしりと結構重い。開けてみると、よくこれだけ集めたな~、という程10円玉が入っている。そして、ここにもメッセージの紙切れが入っていた。

「試験、おつかれさま。10円玉になって、ついてきちゃったよ。母より」私は弁当箱の蓋を閉めることも忘れて、公衆電話に走った。

呼び出し音が、一回鳴るか、鳴らないかのうちに受話器をあげる音がし、母の「は~い、もしもし。」と、いつもの優しい声が耳いっぱい聞こえた途端、もう止まらなかった。涙も。一科目めの大失敗の話も・・。

母は、何も意見を挟まず、私が話している間中、ただ、「うん、うん。」と私の話を聞いてくれた。話し終わった後、もう、帰ろうと思っていた気持ちが不思議な位、綺麗さっぱり消えて無くなっていた。

そして、気がつけば、母に、「昼からの二科目め、頑張るわ。」と伝えていた。その言葉の後、ずーっと電話の向こうで沈黙が続いたので、聞こえなかったのかな、と、もう一度声を掛けようとしたちょうどその時、「祈ってるから・・。大丈夫。あんたは絶対、大丈夫。なんてったって、私の娘やもんな。」と、力強い母の声が耳に届いた。

今、思い返し、よく考えれば、「私の娘やから、大丈夫」なんて、無茶苦茶な根拠である。しかし、当時の私にとってはこれ以上ない程に力を与えられた言葉だった。

そして、私は敗者復活戦に臨むがごとく二科目め、三科目め、と力の全てを出し切り、その二ヶ月後、母と共に、その学校の入学式に涙で、臨んでいた。

あの時の、電話の向こうの母が聞かせてくれた、力強い声とは裏腹に、ほんの微かに聞こえてきた涙をこらえて、母が鼻を啜る音が、私の入試の勝敗を分けたように思う。

いや、実際のところ、10円玉の巾着を手にした時点で、もう完全に「諦め」の気持ちは私の中からノックアウトされていて「へこたれへん!」という気持ちのスイッチが入った、というほうが、正しいかもしれない。10円玉の詰まった巾着は、母の気持ちがそのまま詰まった巾着だった。

もう、かなり前の出来事なのに、昨日のことのように鮮明に思い出すのは、この時の出来事が、今でも、いろいろな困難に直面する度、私を支えてくれているからに他ならない。私自身、「母」となった今、とりわけ、あの時の、母の「強さ」と「優しさ」を身にしみて感じている。 

 
「10円玉になって、ついてきちゃったよ」という表現に、私たち男親では絶対真似のできない、母の無限の愛を感ずるものです。これが産みの苦しみを経て掴んだ、体を分け合ったものへの強さなんでしょうね。口惜しいけど、とても真似ができません。

2011.05.18

清水寺貫主・森清範氏講演よりその2 No.2010

清水寺貫主・森清範氏のお話の続きです。清水寺が北法相宗ということは前回お知らせしましたが、1200年もの長い年月を掛け、庶民信仰として位置づけられているとのことです。
 
拝むのは観音様であり、多くの人の対象となっているわけですが、法華宗では観世音、また般若心経では観自在として知られています。この観世音の観という字が私(主観)ということを表わし、また音が環境(客観)を意味しているとのことです。
 
この世という字を挟む、観と音から観音様と呼ばれているわけですが、観と音の2元が一体となったとき心が通じ合う慈愛の心(慈悲心)が生まれると言います。
 
また佛(仏)とは本来、現地語ではアラヤ(蔵)と呼ばれ、過去の経験がいっぱい詰まっていることを意味しているそうです。また雪がヒマということから、雪が豊富な所としてヒマラヤが名付けれているとのことです。
 
それから、よく知られている曹洞宗開祖、道元禅師が言われる「本来の面目」という言葉の意味を説明されていました。私のお父さんやお母さんが生まれる以前はどうだったのかという、本来具えている真実のすがたについて触れていたのです。
 
春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪きえで(さえて)すずしかりけり」という、その和歌集の一首があります。花は桜、秋の月というのは本来仏様を意味しているようですが、夏のほととぎすと冬の雪と併せ、季節を象徴する大自然との一体を詠まれた歌と聞きます。
 
そうした大自然に対し、こちらがどうこうあって欲しいという我のある心ではなく、それらをあるがままに受け取る純粋な人間性や心があれば、心も爽やかでわずらいがないという意味のようです。
 
またそれは鏡のようなものであり、柔軟心と呼ぶのでしょうか、本来の面目が現前していると言われます。また本居宣長が「しきしまのやまと心を人とはば朝日ににほふ山桜花」と、日本人の心を詠っている通り、我のない心が求められているものです。
 
今回の大震災に対しても、管主は被災地に向け「」という一字を書いて送ったそうです。それはお互いが尊い存在で、思いやりのある、生まれつき持っている心を意味しています。
 
また絆創膏という語にも使われているとおり、ボンドの意味で切っても切れないものです。今回運悪く、東日本の方々が大災害に見舞われてしまいましたが、被害に遭っていない私たちにとっても、とても他人事ではなく、この絆で結ばれていることを示さなければなりません。
 
それが森管主の言われる、人間として本来の面目を養っていくことになるものと思っています。

2011.05.17

39歳にして掴んだもの No.2009

プロ入り16年目、39歳の河井博大選手が日本プロゴルフ選手権で初優勝を飾りました。ご本人の話でも、この日を迎えるまで本当に長かったという、言葉どおりの優勝です。
 
何度も、もうプロゴルファ-を辞めようかと思ったと言われます。96年にプロテストに合格して以来、2000年からツア-に本格参戦したものの、なかなか勝てず賞金シード獲得と喪失を繰り返してきました。
 
その支えになったのは同じプロゴルファ-の田中秀道さんです。広島の同じ高校の1年先輩に当たる田中さんは、なかなか芽の出ない河井選手を見かねて、名古屋に呼び寄せ生活の面倒を見ながら、ともにプレ-してきたと言われています。
 
しかしそれでもなかなか花は咲かず、コ-スに出ると普段とは違った神経質な面が出て、思い切りのよいプレ-ができず、何度も壁にぶつかっていたそうです。 そしてゴルフが自分には合っていないのではないかと、時には自暴自棄になってゴルフから離れたこともあったと聞きます。
 
でも田中さんは見捨てなかったそうです。自身が米ツア-に渡ってからも、「家族以上の存在」と思いやり、電話やメ-ルで一生懸命励ましてくれていたとのことです。
 
この河井選手、ショットは以前から悪い方ではなく、何年か前にはパ-オン率はランク1位を獲ったこともあるそうです。しかしもう1つのスコアを左右するパットが悪い為、なかなか勝てなかったのです。
 
従ってこの日もラウンド前の練習グリ-ンでは、師匠にも当たる田中選手から「お前は絶対勝てないからな」と何度も告げられ、ダメもとで開き直ってやってみろという、気楽なアドバイスが効を奏したのではないでしょうか。
 
その結果、最後まで優勝を争った、強豪である2008、09年の韓国ツアー賞金王ベ・サンムンを下し、優勝賞金3000万円(但し1割は被災地への義援金)と5年間ツア-シ-ド権という大きなものを手に入れたのです。
 
優勝後のインタビュ-でも、本当に辞めなくてよかったという師匠の言葉が実感のこもるもので、やっと恩返しのできた涙の優勝ではなかったでしょうか。
 
またこのオフに1ヶ月間、合宿に参加させてもらったジャンボからも前夜、電話で激励を受け、緊張していると告げると「緊張するならプロゴルファーを辞めろ」との愛のムチを受けたと言います。
 
師匠・田中さんの他にも、周囲の少なくない支えがあったのではないでしょうか。やはり人生あきらめてはいけませんね。「禍福は糾える縄の如し」悪いことばかりありません。前向きに努めていれば遅くても花開くことがあるものです。私たちにも希望を持てる39歳の優勝でした。