会長の”三行日記”
2016.03.14
学校の責任 No.2824
この時期は寒暖の差が激しく、今日も朝から冷たい雨が降りしきる一日となっていますが、この気候に柔軟に対応するのにはなかなかしんどいものがありそうです。くれぐれもご自愛頂きたいものです。さて、中学3年生の生徒が進路問題に悩み自殺したことで、学校の責任が大きく問われています。
これは広島の府中緑ヶ丘中学で、男子生徒が高校入学につけ、学校の推薦を受けれなかったことが原因で自殺してしまった問題です。推薦を得られなかったのは、1年生のときに引き起こした万引きという問題行動が原因とされたのですが、実はこれが人違いであったということが判明したからです。
当時開かれた13年の委員会では、自殺した生徒が万引きをしたとの誤った資料が配られたのですが、その場で誤りに気づき修正されました。ところが委員会に管理職が不在だったため、お粗末なのは元データを修正する指示がなく、そのまま放置されたのです。
そして誤ったままのデータが2年後の進路指導で使われ、生徒の自殺につながったというのです。更にこうした校長が誤った資料で進路指導が行われていたと知ったのは、生徒の自殺当日だったと言われているのです。
またこのような問題行動を起こした生徒の状況を報告する校内の重要会議に、元校長ら管理職がほとんど出席していなかったという事実も判明しているのです。あまりにもその体質が怠慢や無責任と言えるのではないでしょうか。
そもそも生徒にとっては進路を決めるというのは大きな問題であって、下手をすればその子の一生を左右するとも言えるかもしれません。そしてたとえ過去においてちょっとした問題行動を起こしたかもしれませんが、それを戒め是正していくのが教師の役目ではないでしょうか。
思い起こしてみると、私も中学1年生の時は結構、悪たれでした。万引きなどはやりませんが、教師に向かっていったこともあります。またクラス全員に呼び掛けて、この授業のときは口をきかないようになどとしたこともありました。
そうしたことで、えらく怒られたことや反省させられたことを懐かしく思い出します。でも今でも感謝しているのはそれをいつまでも引きずっていない先生方の温情というか、温かい配慮に対してです。
中学3年生になって入試が迫ってきたとき、担任の先生は私を呼んでこう言いました。「おまえの1年の時の素行をそのまま内申書に乗せたら、おまえがいくら頑張っても志望校には入れないよ。解っているな。」
それ以外は一言も語らず、ずいぶんと温かな言葉に感じたものです。中学1年ぐらいのときはまだまだ子どもから少し抜け出ようとしている段階で、物事の分別がつけにくい時期でもあるわけです。それをしっかりと諭しながら育ませていくのが学校や教師の役目ではないでしょうか。
今回のことは決して本人が問題行動を起こしているわけではないのですが、たとえ間違って万引きなどを犯してしまっても、それで烙印を押すのではなく、良き方向に導いてやるのが本来の役目のように思えます。学校や教師の在り方が問われている問題です。
2016.03.11
あの日から5年 No.2823
あの日から5年が経ちました。今でも避難生活を送る人は17万人以上に上り、とても復興が進んでいるとは思えません。また2561人もの方の行方が未だにわかっていないとのことで、関係者の思いを推しはかると、心の復興はまだまだ遠く先のように思われます。
折しも今日11日は選抜高校野球の組み合わせ抽選日に当たります。その前日である10日は出場全32校の主将が交流する「キャプテントーク」を同ホールで開催しました。ここで21世紀枠代表の被災地・釜石高の菊池主将が約5分間にわたり、自身の被災体験を振り返り、語ったそうです。
他の学校の主将はこの話を真剣な面持ちで、じっと耳を傾けていたとのことですが、まさに被災者の気持ちを代表しているようで、私もこれを読んで胸が熱くなりましたので、ちょっと紹介させて下さい。
私は5年前の3月11日、あの東日本大震災の被害を受けました。当時、私は1週間後に卒業式をひかえ、学校も午前中に終わり、校庭で友達と遊んでいました。そして地震が発生しました。震度7の揺れが5分以上も続き、私たちは不安にかられ、30分後には津波が町をのみ込みました。
自分たちが住んでいた町が海になり、一面が黒い海水と大量のがれきで埋まりました。あんな思いだけは二度としたくないと今でも強く思います。そして、地震はさらなる不安を招きました。家族の安否です。私は1人でその日の夜を過ごしました。
みなさんは自分の家族が亡くなったかもしれない夜を1人で過ごす大変さは分からないと思いますが、私はそのとき、ものすごい絶望感と不安に襲われました。その日の夜がとても悲しくてたまりませんでした。あんなにも家族に会いたいと思ったことはありません。翌朝、家族と無事に再会できたときはとてもうれしかったです。
しかし、町を見たとき、周りの家がなくなり、道路の一部が決壊し、前日までの釜石とは思えませんでした。津波は多くの家や風景、そして命を奪ったのです。信じられませんでした。避難所ではライフラインが途絶えた状況が1カ月ほど続き、本当に苦しい毎日でした。
毎食おにぎり1個と味噌汁、水もみんなで回して飲み、お風呂も震災発生から1週間以上入れず、外に出ても油の臭いや津波の影響で家の屋外が腐敗した臭いが漂い、凄いストレスがたまりました。その影響もあり、体重が10キロも減りました。
そんななか、中学校に入学し、部活動の選択をしなければいけない時がきました。私は一度は諦めました。道具集めや遠征費で親に迷惑をかけてしまうと思ったからです。それでも野球を続けられたのは両親の支えや昔の先輩の支え、そして何より全国各地からのたくさんの支援があったからだと思います。
あの支援がなければ今私がここにいることはないですし、いろんな人たちと野球を通して関わることはありませんでした。心から感謝しています。震災から明日(11日)で5年。私の住む釜石はかさ上げ工事がまだ終わらず、道路の整備もまだ完璧には行われていません。
釜石を通る三陸鉄道や道路の冠水もついこの間、終わったところです。まだまだ野球部の中にも仮設住宅に住んでいる人もいます。本当に復興はまだ始まったばかりです。
私たちは今回のセンバツで、少しでも被災地の方々へ元気を与えられるよう、そして、多くの支援をしてくださった全国の方々へ感謝を届けられるように、選抜大会では全力でひたむきなプレーをしたいと思います。きょうはありがとうございました。
皮肉にもその釜石高が同じ21世紀枠出場の小豆島高校と1回戦で対戦することになりました。どちらも勝たしてやりたいのが正直な気持ちです。日々の生活に追われている私たちはこのような節目の日を迎えないと、なかなか被災した方々のことを思ってやれないところがあります。
でもこの未曾有の大震災は絶対風化させてはいけません。私たち日本人の一人一人が被災者の立場になって考え続けることが、いくらかでも被災者の気持ちを癒やし、心の復興を早めることに繋がるのではないでしょうか。そんな思いで今朝は朝礼で社員全員で黙とうを捧げました。
2016.03.10
CoCo壱番屋社長講演 No.2822
昨日沼津のプラサ・ヴェルデでCoCo壱番屋・宗次社長の講演がありました。法人会の経営研究部会主催のものですが、生憎の雨の中でも、150人ぐらいの人たちが聴講に訪れました。
社長は1948年10月生まれと言いますから、私より学年が1つ上の67歳です。でも見た目にはルックスも良く、サッパリと身ぎれいにされていますから、実際の歳よりずっと若く見えました。またユ-モアが溢れていて、講演の最後に少し幼少の頃の極貧の苦労話をされましたが、そんなふうには全く感じさせないほどの垢抜けた感じさえ持ったものです。
しかしながら結構、その話は脱線しますが、講演の要所要所で話されていた言葉にはやはり創業者でここまで登り詰めただけの重く、それなりに感じさせる深いものがありました。演題も「夢を持つな!目標を持て!」というものです。
今から37年前、29歳で創業したと言います。今日まで専門的なコンサルタントには一切つくことなく、自ら素人商法だと謙遜します。資料にも儲けたい、成功したいという気持ちはなく、ただ人に喜んでもらいたかったと記されています。笑顔で溢れた店にしようという思いがその出発点です
話の中から掻い摘んでいくつかその言葉を紹介します。経営者はよそ見をせず、経営に身をささげるべき。特に感謝の気持ちを常に持ち続けることです。経営なんて自分一人では何もできません。お客様、取引先、そして社員の方たちに常に感謝の気持ちを持ち続ける。
私の場合は、苦労した生い立ちがあるので、自然と人に対する感謝の気持ちを持ち続けることができました。大事なのは、継続することなんです。意外に継続することは難しいんですよ。器用な人ほど、最初はうまくやるけど、継続はしない。
仕事も最初はそれなりに頑張って少し良い結果が生まれます。そしてある程度の段階まで達するとそれで満足してやめてしまう。そうではなく今度は次の目標をその時点で立て、継続して頑張り続けることが大事なのです。
私は現役時代、趣味も持たず、友人もつくりませんでした。飲み屋に行ったこともありません。仕事の邪魔になることは、何ひとつやりませんでした。年間5640時間(1日15時間半を365日)働くこともありました。そうやって率先垂範しないと、部下は働いてくれないと思ったからです。
全ては日々の積み重ねで、毎日必死に頑張っていれば、10年、20年経ったときに夢のような奇跡が起こるのです。宗次社長は今でも毎朝3:55に起床し、自身が建てた宗次ホール周辺を掃除し、花を植え、公演前には入場口で客を出迎え、一緒にクラシック音楽を堪能するのが日課とのことです。
また53歳の若さで経営の第1線から身を引き、創業間もないころ19歳でアルバイトで入った浜島さんに代表を引き継ぎました。そしてそれ以後一切経営の口出しはしないと言います。後継者を私より優秀な経営者だと認め、信頼しているからです。
こうした独特な生きざまを自ら変人経営などと名付けているものの、とても凡人では真似のできないことばかりです。幼き頃から地獄に近いようなものを見た人にとっては、大変さの物差しが違うようにも思えました。現状に満足することなく、次の目標に向かって一歩一歩進まなければ、とてもやり遂げることはできないと教えられました。