会長の”三行日記”

2013.01.10

本年の初めに No.2337

少し遅くなってしまいましたが、あけましておめでとうございます。2、3日は風が強い日でしたが、総じて良いお正月だったのではないかと思われます。
 
昨日からこのカキコミも再開するつもりでおりましたが、暮れに緊急でヘルプを依頼されました現場があり、昨日はその工事で出掛けながら、午後からまだ年始のご挨拶が済んでいないお客様を回ってきました。
 
そんなわけで、少し寒い現場でしたが正月早々、お引き合いを頂けたのは嬉しいことです。政権が変わったからと言っても、急には好転しない経済情勢ですので、今年は弊社理念にもあるとおり、益々小回りよくお客様のお役に立てるよう心がけたいと思っております。
 
それにしても暦の関係で、年末年始の休暇は9日間もあり長い休みとなりました。ほとんどの所がそうであったのではないかと思われますが、今年の休みに関しては私たち中小企業と大企業の格差が小さかったのではないでしょうか。
 
正月の話題からいくつか拾ってみたいと思います。まず正月恒例の風物詩とも言える箱根駅伝ですが、日体大が見事な優勝を飾りました。特に山登りの5区では3校が競り合い、いつにない面白い展開でした。
 
この中で3年生で主将を任された日体大・服部翔大選手の頑張りが見事でした。その前年の箱根駅伝はチ-ム史上最低の19位に終わり、今回は予選会を経ての出場でした。やはり優勝の陰にはいろいろとその要因があるようです。
 
まず前年最低の成績に終わった後、チ-ムに喝を入れるため、4年生を差し置いて3年生の服部くんを主将に命じたのです。これには4年生をはじめ、少なくない反撥があったようです。
 
また高校駅伝の名門校であり、8度も優勝に輝いた西脇工から渡辺公二さんという名将を招き、特別強化委員長としてチ-ムの改革に乗り出したのです。それまでのチ-ムといったら、合宿所でもゲ-ムなどで夜更かしすることが少なくなかったそうです。
 
これを5時半起床の規則正しい生活に変え、食事や掃除など基本的なことを徹底させたのです。一般的に長距離走は夜10時に寝て、朝5時に起きるような生活をしないと良い練習はできないと言われています。
 
これによりチ-ム内の団結力などまとまりができたようです。それと名門が初めて味わった屈辱的敗北が、各選手の二度と味わいたくないというモチベ-ションを上げたのではないでしょうか。蛇足ですが、1年生ながら1区を任された勝亦祐太くんは、御殿場・富士岡中で中学全国優勝を遂げたときのメンバ-です。
 
このように屈辱的敗戦からの優勝には、やはりそれなりの要因があるものです。その他、お正月にはマグロの初競りなど、景気の良い話題もありましたが、また次の機会に触れさせていただきます。本年も変わらぬご交誼を賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。

2012.12.27

今年を振り返って No.2336

明日が会社大掃除のため、本日が今年最後のカキコミとなります。今年も1年間いろいろとお世話になりまして有難うございました。やはり振り返ってみて、今年は激動の年ではなかったかと思います。
 
第一に長年連れ添ってくれている女子事務員が、年が変わってすぐの1月下旬に倒れてしまいました。幸い後遺症はほとんどなく8月中旬に復帰できたものの、その間、多くの人たちにもご心配をお掛けし、励ましの声も頂きました。
 
半年以上の長期離脱は会社にとっても、資材調達等を預かる立場からいろいろと大変でした。また会社の窓口となる電話応対にも彼女が出られなかったことから、お客様にもご迷惑をお掛けすることが少なくなかったことと思われます。
 
改めて彼女の存在を思い知らされたものです。それから昨年12月より中国から再来日した、弊社技術員、劉慶くんの目覚しい成長ぶりについても触れなければいけません。
 
3年間の研修期間を経て一時帰国したのが、ちょうど東日本大震災の起こった直後でした。そのときの空港での模様はこの欄でも触れたかもしれませんが、彼以外のほとんどの外国人はまるで日本から逃げ出すような慌てぶりでした。
 
でも彼は無事研修期間が終わり、たまたまその時期が重なっただけですから、お互いの再会を固く約束して別れたわけで、別れという感傷的なものは一切ありませんでした。
 
ただ中国内での諸手続きが思ったより手間取った関係で、再来日には半年以上の期間を要してしまいました。その間、彼は自国で結婚までして、日本でのその後の生活も描きながら準備をしてくれていたのです。
 
こうして正式に技術員として再入社したわけですが、決して割り切った仕事ぶりだけではなく、本当によくやってくれています。日本語の習得も優れていて、来年か再来年、顧客の中国工場進出計画に向けては単なる技術員としてではなく、大きな力を発揮してくれるのではないかと思っています。
 
また私個人的には夏から秋に掛けて、いっぺんに二人の可愛い娘のおじいさんになることができました。長女の娘が8月、そして次女の娘が11月に誕生したのです。この欄でも初めの孫については紹介させていただきましたが、どちらも本当に可愛い存在です。
 
長女の方が由稀(ゆき)、そして次女の娘が羽菜(はな)と呼ぶわけですが、二人の存在で家の中がこんなにも和むかなと思えるほど、賑やかになるものです。
 
こうして孫とともに迎える初めての正月ですが、来る年が穏やかで皆の無事息災を何よりも願いたいものです。今年も1年間、いろいろとご愛顧をいただき、有難うございました。どうぞ皆様も良いお年をお迎え下さい。
 
来年は1月7日より営業となりますが、8~9日は年始の挨拶回りのため、カキコミは9日より再開します。よろしくお願い申し上げます。

2012.12.26

被災地からの年賀状 No.2335

大震災の被害を受けた東北各地には、2度目の年越しがやってきます。依然として復興が進まず、まだ本当にお気の毒な現況なのですが、一足早く被災地から寄せられた年賀状が紹介されていました。
 
■ママ、げんきだよ 

岩手県釜石市鵜住居町の保育園児、川崎遥斗(はると)君(4)は天国のママに宛てた。 元気いっぱい遊び、帰ってくるとぐっすり眠る。楽しく遊ぶ様子をママに知らせたくて保育園でピクニックに行くときのバスの絵にした。

名前は自分で、「げんきだよ」の文字は祖母の弘子さん(55)に手を添えてもらって書いた。 昨年の大津波の4日後、遺体安置所で母真理子さん(当時25)と対面した。その夜、遥斗君は弘子さんに「ママ、治るかな?」と聞いた。今年の七夕の短冊には「ママ、会いに来てね」と書いた。

「飛行機で空に上がり、ママを連れて帰ってくる」。最近はこんなことを言うようになった。育てる弘子さん夫妻は真理子さんの死を何度か教えており、以前ほどママの話はしなくなったという。それでも会いたいのだ。その気持ちはママにきっと伝わっている。

■支援に感謝 新居決まりました 

福島県相馬市の仮設住宅で暮らす阿部洋子さん(66)は、ボランティアで野菜などの支援物資を何度も運んでくれる長野県小諸市の男性に宛てた。「感謝の心を伝えたいから」 

津波で家を流され、消防団副分団長の長男健一さん(当時39)を亡くした。いまでもふとした時に涙が出る。 

仮設住宅暮らしは1年半を超えた。自宅跡から2キロほどの高台に出来る災害公営住宅に移ることがようやく決まった。地元に近い場所に住める。「希望の春」にその思いを込めた。

■10歳、会えない友達へ 

小学5年生の紺野ななさん(10)は原発事故で福島県浪江町から避難し、同県二本松市で再開した浪江小に通う。ふるさとで同じクラスだった仲良しの女の子に書いた。

土日も放課後もいつも一緒に遊んでいたが、今はどこに避難しているのかわからず、宛先が書けない。「遊びに行く時はいつも手をつないでいたから、今度会った時も手をつなぎたい」。そんな思いを込めた。

■川内村 よみがえれ! 

原発事故で住民の避難が続く福島県川内村の遠藤雄幸村長(57)は村再生への思いを込めた。今年1月の「帰村宣言」を経て3月に役場は元の場所に。ただ、戻った村民は半分にも満たない。

例年、年賀状にはその年の目標を書く。「強く思えば思うほど思いは通じる。だから、明るい未来しか想像しない」 

■気仙沼から、宮崎のカツオ漁師へ 

宮城県気仙沼市の芳賀清成さん(85)はカツオ一本釣り漁船が朝日を浴び気仙沼漁港を出て行く様子を水彩で描いた。長年付き合いがある宮崎県日南市の第21愛宕丸の元漁労長に宛てた。 

入港すると、野菜や焼酎につけた渋柿を土産に持たす。逆にカツオの塩辛を大量にもらうことも。 津波で長女を亡くし、年賀状を出すのは2年ぶり。気仙沼を支えるのは今もカツオ。

だから「黒潮とともにお出(いで)下さい」と書いた。被災後しばらく酒を控えていたが、今年秋、愛宕丸の乗組員らと酌み交わした。酒も魚も漁師も本当に好きだ。 

 
私たちが当たり前のように暮らしている裏には、不自由な仮設住宅や、愛する故郷を離れ、ただ遠くから想いながら、このように暮らさなければならない方々がまだまだ少なくありません。
 
早く元の暮らしに戻れるよう、祈るしかないものですが、少しでも幸せのお裾分けをみんなで届けてあげたいものです。来年はもっともっと良い年になれるように!