会長の”三行日記”

2013.05.08

誰かが必ず見ている No.2388

 高代延博さんってご存知でしょうか。今年あった第3回WBCでも内野守備走塁コ-チを務められた方です。現役時代、派手な選手ではなかったので、あまり知られていないかもしれませんが、かつて法政大学からノンプロの東芝を経て、日本ハムに入団したときはドラフト1位の選手でもあった人です。

その人の「誰かが必ず見ている」という記事を読みましたので、ちょっと紹介させていただきます。元々プロで野球をやることなど考えていなかったみたいで、父親からも「プロ野球は絶対目指すな」と言われて育っていました。

奈良県の割り箸製造業を営む家に、長男として生まれ育ちました。小学4年から始めた野球はやはりセンスがあってうまかったのでしょう。中学に入っても2年からレギュラ-となり、卒業時には野球の名門である、愛知の中京、京都の平安、兵庫の報徳学園などから誘いの話があったくらいです。

でも父親も厳しく、家業を継ぐのは当然だと思っていたので、地元・奈良の公立高である郡山高校に進む予定でした。しかし担任や野球部コ-チなどの薦めで、開校して間もない智弁学園が盛んに誘ってくれているからということで、授業料の要らない扱いで入学したのです。

そして高校でも野球漬けの毎日だったのですが、甲子園には届かず、野球はここまでと決めていたのですが、やり残した気持ちが拭えませんでした。それゆえ父親に頼み込み、法政大学の夜間部に入学し、再び野球をやり始めたのです。

でも当時でもプロで野球をやることなどは全く考えていなかったみたいで、自分にとって好きな野球と仕事は別のものと思っていました。法政大学時代はあの江川さんの2級上になるのですが、公称170㎝と言われている身長も、たぶんそんなになかったのではないかと思われるくらいのものでした。

従って監督から「おい、チビ」と呼ばれるくらいで、ベンチ入りもしていない選手だったのです。しかしながら、毎晩300~500本の素振りは欠かすことがないことから、先輩や後輩に「よくそこまでバットを振るなあ、試合も出られないのに」と冷やかされもしていました。

そんなある時、行けという突然の声が掛かり、慌ててユニフォ-ムに着替えて打席に立たせてもらいました。その結果が見事なヒットを放ち、以後のオ-プン戦では11打数8安打と頭角を現わしたのです。

高代さんは「自分一人でコツコツやっていることでも、誰かが見ているものです。後年、コ-チになってよく分かりますが、そういう努力は伝わってきます。そして報いてやりたくなる。良い循環が始まるんです」と話しています。

後のコ-チ時代、高代さんは世界一の三塁ベ-スコ-チとも呼ばれるくらい、打球の優れた判断から本塁に向かう走者に対しての指示が抜群だと言われています。またノックの名人とも言われ、試合での打球のように生きた球を打ち分ける技術にも優れていました。

これもコ-チになって1日3000球も打って練習していたからと言います。やはり人知れない努力の積み重ねがもたらすものではないでしょうか。天才は努力によりつくられるとも言われています。人の見ていないところでの積み重ねが大事ですね。