会長の”三行日記”

2013.06.28

ちょっと良い話その108 No.2420

 こんなに踏みにじられても負けない、不屈な闘魂を持つ酒造りのちょっと良い話です。

2011年3月11日。「磐城壽(いわきことぶき)」を造る、日本で最も海に近い蔵といわれる福島県浪江町の鈴木酒造店は、その年の酒仕込みを終了する「甑(こしき)倒し」の日だった。

突然の大揺れに、蔵元の鈴木大介さんは、家族を高台に避難させ、自身は消防団員として町民の誘導に全力を傾ける。3日後、避難先で見たネット映像で、蔵は跡形もなく消え、タンクは1キロ先まで漂流したと知り、廃業を決意した。

隣の山形県の東洋酒造が空いている長井市の蔵を使わないかと声をかけてきた。他県で造るには新しい酒造免許が必要になる。家族の願いは、故郷浪江での再開。地元の免許は残したまま、新しい免許を取るために住民票を山形に移し、福島の義援金は受け取れなかった。

気候や水が変わるなど数々の困難を乗り越え、祈る気持ちで仕込んだ新酒は、年明けに、浪江町役場が移転していた福島県二本松市であった浪江町消防団の出初め式で披露され、「これが浪江の味だ」と感激させ、「早く帰って来い」と激励された。

蔵が蔵を助け、酒が故郷の結束を確認する。東京・代々木上原の居酒屋「笹吟」で飲んだ「磐城壽」は澄みきった味わいに、しなやかな希望と望郷の念を感じさせた。

飲むには理由(わけ)があると題した、居酒屋探訪家の書かれたコラムです。甑とは米などを蒸す道具を指し、これが不要となるからそのように呼ばれているのではないかと思います。造る人から言えば、丹精に酒を仕込み終え、やれやれとする日ではなかったでしょうか。

それが一瞬にして何もなくなってしまったのですから、その大きな落胆は想像以上のものだったと思われます。そして一度は廃業を決意したのですが、培われた酒造りの熱い血が黙っていなかったのでしょう。

思うに、こうした苦労を経て何とか酒造りは再開できたのですが、何よりも、早く故郷に帰って再びおいしい酒を造りたいのではないでしょうか。しかしながら、現実はなかなかままならない苦悩を持ち続けているわけです。

これと同じような苦労をされている方々は数え切れないのではないでしょうか。ものづくりの執念を感じた、ちょっと良い話でした。歳をとるにつれ、どんどんと日本酒好きになってきた私も、このような秘話が隠されていることも思いながら、深く味わなければと感じたしだいです。

2013.06.27

歴史人物に学ぶ2・山田方谷 No.2419

 山田方谷って知らない方が多いのではないかと思いますが、幕末期、破綻寸前だった備中松山藩(現在の岡山県高梁市)の財政を立て直したことで知られている人です。

当時の負債額は10万両、現在に換算すると100億円以上にもなる大金です。それをたった8年で黒字に転換し、しかも余剰金を10万両蓄財させたと言われています。驚くべきその手腕ですが、その改革手法はそのまま現代の企業再生の手法にも通ずるとのことです。

幕末の日本には260余りの藩があり、それぞれの大名による経営で、完全な自己完結型経営でした。でも当時は石高制の崩壊や商人の台頭による貨幣経済が主流で、ほとんどの藩が困窮していたそうです。開国後、力のある大名は商社化し、武士は商人化することで破綻寸前の財政を立て直したのです。

この松山藩も同様で、藩主でもない山田方谷という、農民出身にもかかわらず、後に学問で身を立て藩士となった人物により藩政改革が行われたのです。当時では異例の出世で、養子だった藩主・板倉勝静が幕府の寺社奉行や老中に抜擢された関係から、留守がちな自藩の建て直しを信頼のおける方谷に委ねたのです。

作家の童門冬二さんはその著書「山田方谷」で、現代で言えば養子社長と農民出身総務部長というコンビで改革を行ったと表現しています。それでは改革前はどのような実態だったかというと、当時の藩の経済力を表わしていた石高(とれる米の量)は、公称5万石と言われていましたが、実際の年貢高は2万石にも満たなかったと言います。

従って石高の半分にも満たない収入で、2倍以上の5万石に見合った税を幕府に収めていたわけですから、10万両もの借金ができるわけです。まさに粉飾決済とも言えるものなのです。ではどうやって藩予算の5倍以上の借金を返したのかは、下記の改革概要に示すとおりです。

① 借金元の大阪商人に藩財政を公開し、返済期限を延期してもらった

② 家中に質素倹約を命じ、上級武士には賄賂や接待を受けることを禁止した

③ 過剰発行で信用を失った藩札を領民の前で焼却、新藩札を発行し兌換を義務化

④ 藩内で採れる砂金から農作業効率のよい「備中鍬」を作り、大ヒット商品となる

⑤ 農産物の特産品化と専売化(タバコ、茶、ゆべし、そうめん、和紙を「備中」というブランドで売り出す)による藩の会社組織化

⑥ 中間マ-ジンを排除するため特産品は船で江戸に直接運び、江戸の藩邸で直販

⑦ 藩士以外の領民の教育にも重点を置き、優秀者は出身に関わらず藩士に登用するという人材育成

このような現代にも通用する手法を実践し、見事、藩の財政再建を行った山田方谷ですが、成功の秘訣は何よりも率先垂範だったと言います。方谷に対するねたみや悪口も多かったものですが、藩の財政ばかりを考え自らの家庭を省みず、山田家は窮乏し、山の中の荒地を開墾して食い扶持を稼いでいたという、身銭を切って藩のために尽くしたという姿に感動する者も多かったからです。

大切なのは率先垂範で、それを下の者に強要しないことだと言います。現在で言えば、「社長の私がここまで努力しているのだから、部下の君たちもそうしろ!」という言葉です。つい口に出したくなる言葉でしょうが、それを言ったらお終いというものです。そうした心を磨くのには自らトイレ掃除をやるのがよいかもしれません。やはり自らに厳しく、実践あるのみです。

2013.06.26

83歳の女性野球部員 No.2418

何と83歳の女性野球部員がグランドに現われたという記事を読みました。以下その記述です。

高校定時制通信制軟式野球の神奈川県大会決勝が23日行われ、高津4年の上中別府(かみなかべっぷ)チエさん(83)が、0―1の6回1死満塁の場面で伝令として登場。背番号12をつけ、三塁ベンチから駆け足で飛び出すとスタンドから拍手が湧き起こった。

「落ち着いて。頑張れ」。マウンド中央でエース小鹿のお尻を2度、ポンポンと叩くとナインに笑みがこぼれた。孫が5人、ひ孫が4人いるが、もっと勉強がしたいと79歳だった10年4月に同校へ入学。

好きな言葉は「生涯現役」で「何でも挑戦したい」と意欲満々だ。昨年10月、クラス担任の中島克己監督(45)から誘われ入部。今年のバレンタインデーには部員に手作りチョコをプレゼントし、お返しにグラブをもらった。週3日、球拾いやキャッチボールで汗を流す。

試合中はベンチの最前列で手を叩いて選手を鼓舞した。0―4で戸塚に敗れ、全国大会出場は逃したが「良い人生経験だよ」と涙を流す部員を励ました。準優勝の銀メダルを首から下げ「一生の宝物です。このチームは日本一」とすがすがしい表情を浮かべた。 

何と素敵な方ではないでしょうか。いわゆる定時制の高校に79歳のとき、もっと勉強がしたいと言って入った人です。そして更に野球部にまで入って、みんなのお手伝いまでされているとのことです。まさに生涯現役そのものです。

こうした前向きな方が本当にいるのですね。自分の孫のような野球部員に混じっての活動は、さぞ素敵な汗をかかれていることではないでしょうか。話はちょっと逸れますが、梅雨もそろそろ明ける時期となり、いよいよ夏の全国高校野球選手権静岡県大会が近づいてきました。

22日にその組合せが決まり、我が母校は15日に清水庵原球場で佐久間高校と対戦します。1回戦それに勝てば強豪と言われる、静清と浜松工の勝者との試合です。大きなヤマになると思われますが、好投手・宮澤くんを擁する我が方にしたって、決して劣っているとは言えない今年のチ-ムです。

是非、後輩たちの活躍を期待したいものです。このチ-ムも現在3年生の女子マネ-ジャ-が抜けてしまうと、一人で頑張っていただけに、後に続く女子マネがいなくなってしまいます。83歳とは言いませんから、何とかこのように素敵なマネ-ジャ-が入ってくれることを願いたいものです。本当に影の大きな原動力となる存在です。