会長の”三行日記”

2016.06.29

スマホ No.2860

 地元の新聞にスマホについての投稿記事がありました。電車の中を見渡すと、どれもこれもスマホを見ながらうつむいている様子が記されていました。私も全く同感で、1ケ月に3回ぐらいやはり電車で静岡まで出掛けるのですが、よく目にしている光景です。

ちょっとその記述を紹介させて下さい。沼津から静岡までおよそ1時間、ぶらり各駅停車の旅である。一日の空白のような時間帯。乗り合わせた乗客はうつむき、心配事でもあるのか、うなだれている人もいた。

日本の経済に勢いがあったころ、人いきれのする電車の中はざわめきがあり、人びとは胸を張って乗っていた。寡黙に下を向く姿は先が見えない内向きの時代を映し出しているようにも見える。

向かい合わせの座席に目をやると、前かがみの若者が手にしたスマ-トフォンをじっと見つめている。さっき、駅のホ-ムでベンチに座りスナック菓子をつまんでいた二人の女子中学生もスマホをのぞき込み、指を盛んに動かしている。ゲ-ムを楽しんでいるらしい。

ドア付近に立っている女子大生三人は電車に乗り込んでからずっとスマホに夢中だ。スマホ、スマホ、スマホ...情報社会を象徴する光景である。時と場所を選ばず、スマホは日常生活に欠かすことのできない存在になっていることを今さらのように思い知らされた。

筆者が書かれているように、現代人にとってはこのようにスマホは「魔法の掌」となっています。でもこうした光景を見るかぎりでは、みんな下を向きっぱなしで元気がないように映るのも確かです。

おそらく手持無沙汰で暇な時間、何をしていたって勝手だろうと思われるかもしれません。しかしほとんどの人がこのような状態で、1億総スマホ化のように感じられる現象は少し奇異とは思わないでしょうか。

もう1つ、やはり筆者が指摘されていたスマホ依存症にも着目しなければなりません。スマホをいつも操作していないと気が済まない。食事をしているとき、お風呂やトイレの中でもスマホに熱中して手放すことができないスマホ依存の若者や子どもが増え、7割の人が依存を自覚していると言われています。

こうした結果、社会でも若者がスマホに依存し過ぎて自分で考えることをしないと、危惧している声を多く聞かれるそうです。また家庭でもこの侵入のおかげで家族の会話が減り、一家団欒は遠い昔のようになっているのが少なくないとのことです。

これでは熱い血の通った人間から離れてしまうような気がしてなりません。確かに高機能を持つ便利なスマホですが、人間がうまくそれを使う分には構いませんが、人間がそれに使われてしまっては元も子もありません。できれば胸を張っていつも前を向いて歩いていたいものです。