会長の”三行日記”

2013.01.21

大鵬親方の死 No.2343

元横綱の大鵬親方が亡くなられました。優勝回数32回と、未だに破られていない最多優勝を誇る名横綱だったことは誰もが知るところですが、巨人・大鵬・玉子焼きと言われた時代に育った私たちにとっては、何か1つの時代が終わったと思えるような、一抹の寂しさを覚えるものです。
 
大鵬親方は終戦の5年前、今のサハリン(樺太)に生まれたのですが、終戦時、卑怯なソ連軍の南下侵攻に伴い、最後の引き揚げ船で北海道に渡ることとなります。その時、稚内経由小樽行きの船で、母と兄弟3人で渡ったわけですが、母親が船酔いのため小樽まで行けず、稚内で降りなければいけなくなりました。
 
この船が稚内を出て小樽に向かう途中、魚雷で沈められたわけですから、やはり生来の強運の持ち主と言えるのではないでしょうか。そしてその後、横綱・柏戸と一緒に柏鵬時代を築き、名実ともに大横綱として大相撲を支えた大功労者だったわけです。
 
現在のモンゴルはじめ、外国人力士がこんな幅をきかせる時代が来るとは、当時はとても想像ができなかったものです。いつも泰然自若として、体全体で相手力士を受け止め、懐の深い柔らかな相撲は今でもしっかりと思い出すことができます。
 
それから姿形が何よりも美形でした。色白の綺麗な肌と天性の運動神経の良さは、やはりウクライナ人の父親譲りだったのでしょうか。また極貧だった幼少時代から納豆を売り歩いたり、重労働で家計を支えていた苦労人でもあります。
 
大横綱として一世を風靡しましたが良いことばかりは続きません。引退後に一代年寄として部屋を興しましたが、脳梗塞で倒れたり、跡継ぎの娘婿だった元貴闘力の大嶽親方が、野球賭博容疑で協会を解雇されるような不運も続きました。
 
こんな波乱万丈な一面もある大鵬さんだけに、全盛期に言われた「巨人、大鵬、玉子焼き」の言葉の中で、巨人と並べられるのはいまいち嬉しくなかったみたいです。
 
裸一貫の自分に対し、有望選手を根こそぎ集めている巨人は、勝つのが当たり前と思っていたからです。ただ長嶋や王選手など、ス-パ-スタ-も全部含めた巨人ということだけに、自分ひとりと並べられ誇らしかったのではないでしょうか。
 
また人間的にも横綱の名に恥じない立派な人だったみたいです。それゆえ、近年の日本人力士がいまいち育たない現状は、稽古量の乏しさや若手の個性の無さを嘆いていたのではないでしょうか。ご本人が言われるように、日本は豊かになり過ぎたからです。
 
そんなわけで、二度とあのような強くて美しい横綱は生まれないのではないでしょうか。大鵬さんの死は忘れかけていた昭和の良き時代を思い出させてくれました。大鵬親方のご冥福を心よりお祈りいたします。