会長の”三行日記”
2012.06.14
思い出の五輪 No.2227
ロンドン五輪まであと45日を切った今日、マラソンは人生のドラマという記事に、今は遠い昔となってしまった東京五輪を思い出すことができました。
もう48年前になってしまったのですね。ちょうど私が中学3年生の時です。友人の家がこれに備え、カラ-テレビを入れたので、家まで押し掛け見せてもらった、あの開会式での日本チ-ムの赤と白のユニフォ-ムと、真っ青に澄んだ美しい空の色が忘れられません。
そのくらい鮮やかなものでした。その東京五輪で活躍した、多くの日本人選手の中で一番思い出に残っていたのが、マラソンの円谷幸吉選手です。
7万人が詰め掛けていたという国立競技場に入ってくるまでは、当時24歳の陸上自衛官だった円谷選手は2位を走っていました。大声援に押され、そのまま銀メダルかと思われたのですが、トラックに入ってからイギリスのヒ-トリ-選手に抜かれてしまったのです。
惜しくも3位になったというものの、堂々たる銅色に輝くメダルを獲得したのですから、円谷選手は胸を張れる立派なものです。抜いた銀メダリストのヒ-トリ-さんは現在79歳、ロンドン郊外でガ-デニングを趣味に、退職後の余生を静かに暮らしているそうです。
このヒ-トリ-さんが当時を振り返って、円谷選手はすごく疲れていたと言っています。また競技場で声援を送っていた円谷さんの兄も「見たことのないほど疲れていた」と述べています。
その責任感と日本中の人々から期待されていた使命感だけで、走っていたのではないでしょうか。レ-ス直後、円谷さんは「4年後のメキシコを目指す」と宣言しました。一方、東京で8位に終わった君原健二さんはレ-スの7日後、所属の陸上部に退部届を出したそうです。
日記には「やっと東京オリンピックという乗り物から降りた感じだ」と書いていたとのことです。それくらい重圧で苦しんでいたのではないでしょうか。そして君原さんは1年間、競技から遠ざかり、結婚もしたそうです。
円谷選手にも結婚を考えていた女性がいましたが、五輪を優先させたいという上官の意向で破談となり、けがも度重なって、ついにはメキシコ五輪目前の68年1月に、自らの命を絶ってしまったのです。
自殺を聞いて日本中に大きな衝撃が走ったのを、今でもはっきりと憶えているほどです。君原さんは「ここに2人の人生の大きな分かれ道があったような気がいたします」と述べています。
こうしてその円谷さんの思いと願いが乗り移ったかのように、後に迫る選手を振り切って、メキシコで君原選手が銀メダルに輝いたのでした。円谷さんは小学生の頃の親の教えを守り、走っているときには一度も後ろを振り返らなかったそうです。生真面目で人一倍、責任感が強かったのでしょう。
このようなドラマがまたロンドンで生まれるかもしれません。来る7月27日に開幕する、3回目のロンドン五輪というものの、日本としては初参加となるこの地での開催に、大いに期待したいものです。できれば私たち同様、子どもたち世代にも東京五輪のような自国での開催の、思い出創りができることを願っています。