会長の”三行日記”

2012.05.18

小田義人さん No.2210

小田義人さんってご存知でしょうか。現在はヤクルト球団のスカウト部長を務める方ですが、先日、機会があり一緒にお酒を飲める会に同席させていただきました。
 
と言うのも、私たちが野球をやっていた高校時代、静高いや静岡県と言ってもよいかもしれません。ス-パ-スタ-であった小田さんと、我が母校・沼津東高が夏の大会で対戦し、1-1で引き分け、翌日再試合を行ったご縁があるからです。
 
と言っても私はまだ駆け出しの1年生、2級上の3年生と1級上の2年生が、その試合に挑んでいたのです。当時から強打者で知られていた小田さん、この引き分けとなった試合でも、センタ-オ-バ-の大飛球を放ち、それをフェンスに激突しながら我が校先輩の野中さんが、ス-パ-キャッチで凌ぎ、何とか守り切ったのです。
 
そして翌日の再試合はこの小田さんのホ-ムランもあり、残念ながら0-4で敗れ去ってしまったのですが、試合後、フェンスにぶつかって額を切り、そのまま入院してしまった野中さんの見舞いに、病院まで小田さん自身が駆けつけてくれたのです。
 
こんなご縁もあり、やはり我が校の先輩・川島さんが早稲田の同級生でもあり、親しくされていることから、何十年振りかの再会の機会を持てたのです。
 
ス-パ-スタ-・小田さんは静高卒業後、阪急からドラフト6位指名を受けましたが、これを拒み早稲田大学に進学しました。その後、一塁手として、六大学のベストナインにも選ばれるほどの活躍でしたが、卒業後、大昭和製紙に入社し、都市対抗で活躍することになります。
 
そして社会人2年目の1972年、ようやくドラフト2位でヤクルトへの入団が決まったのです。この入団時の約束で、他球団へはトレ-ドに出さないとのことでしたが、大杉勝男選手をどうしても獲りたいという球団の事情で、日本ハムへの移籍となったのです。
 
移籍してもその打棒は一向に衰えず、1975年にはパリ-グの首位打者を獲得した、打率.3193の白仁天(太平洋)選手と、6毛差の.3187で最後まで激しい首位打者争いを演じました。
 
こうした華々しい球歴を持つ小田さんなのですが、全然そうしたひけらかすところなど見せず、至って真摯に私たちと普通に接してくれました。こういったところが小田さんの人間性なのでしょう、およそ2時間あまり、球界の裏話や高校時代の思い出話など、本当に楽しく気さくに話して頂きました。
 
やはり「実るほど頭を垂れる稲穂かな華々しい過去を有していても、謙虚に振舞うことのできる人は見事です。現在、大リ-グ・ブルワ-ズに所属する青木宣親選手も、小田さんがスカウトで獲得した一人とのことです。大好きなヤクルト球団にいつまでもいてもらいたいと思った、素敵な小田さんのお話でした。