会長の”三行日記”
2011年08月
2011.08.08
花嫁の父 No.2055
新郎新婦同様、こちらもタキシ-ドなるものを着せられる関係で、少し早くからその控え室に入れさせられていました。控え室は冷房が効いているからよいものの、外はうだるような暑さです。身内や親戚ならまだしも、こんな真夏に招かれたお客の皆さん方は本当にいい迷惑だと、気の毒になってしまったほどです。
しかし、二人とも中学の教師を務める関係で、子ども達にも迷惑を掛けず、また自分達も旅行などで少しまとまった休みが取れるとしたら、やはりこの時期しかないかもしれません。
そんなことを考えながら、時間だけは十分あるのですが、なぜか落ち着かない時が過ぎて行き、やがてその時を迎えました。チャペルでの式などあまり慣れていないこちらでしたが、簡単なリハ-サルがあり、入場は2通りあって、1つは最後まで父親がエスコ-トしていく方法と、もう1つは途中から新郎にバトンタッチするやり方です。
これを新婦に選ばせたのですが、開口一番、最後までお父さんと行きたいと言ってくれました。さすがにちょっと嬉しかったですね。こうしていざ本番を迎えたのですが、やはり誰もいなかったリハ-サルの時とは違うものです。
大勢の招待客が出迎えてくれた入場は、扉が開いた途端、主役ではないこちらまでジ-ンとなったものです。そして一通りの儀式が終わった後、牧師の言われるまま賛美歌の何番でしたか、歌い始めた途端、不覚にも胸がいっぱいになってしまいました。
ここまでの彼女の成長が思い浮かんできたのでしょう。でも努めて耐えて、歌は歌えませんでしたが、涙は人には気づかれないよう堪えたものです。これがやはり花嫁の父の心境なのでしょう。
こうして披露宴も皆さんの温かい祝福のお陰で、滞りなく進行することができました。花嫁の父ながら、新郎の父君が昨年3月急逝した関係で、最後のお礼の挨拶はこのことにも少し触れながら、私が務めさせていただきました。
この挨拶が控えていたのと、恒例の花嫁からのお涙頂戴の儀式がなかったことが、崩れないで済んだお陰ではないかと思います。そして二人が今日を迎えることができたのも、列席者はじめ多くの方々の支えがあったからこそということを実感しました。
最後にサプライズで、ブドウ畑の彼方から二人を祝福する花火まで上がりました。ロケ-ションの良さを活かした幻想的なものでしたが、これはワイナリ-の方での気遣ってくれたサ-ビスとのことです。
とにかく、こうした関係者が少しでも列席者に感動を届けようと、いろいろと心配りしてくれたお陰で、時間の長さも感ずることなく、本当に楽しいまま祝宴を閉じることができました。列席者並びに関係者に深く感謝申し上げます。
2011.08.05
被災地・石巻を訪ねてその2 No.2054
ボランティアの初日、現地企業さんに出向く前、友人がそのすぐ近くの、大きな被害が出た住宅地域に迂回して案内してくれました。
その前日にも少し、被害に遭った別の地域を眺めましたが、目の前に飛び込んできたのは一面洗い流されたような、何にも残っていない風景です。
思わず息を呑んで、ただ呆然と眺めるだけでした。そして次第に胸が詰まるような思いが込み上げ、涙を抑えることができませんでした。
ポツン、ポツンと少しばかり、風穴があいたように残っている家も、ほとんどが大きなもので、どれも比較的新しい家に見えました。一瞬にしてこの自身が永年掛かって築き上げた、財産を失ってしまった方々の思いはどうなのだろうか。
そう考えると、居た堪れない思いに駆られたものです。そして支援作業をやらせて頂いた企業さんに向かいました。その場所はおよそ海からは100mぐらいの所からでしょうか、まだまだ残骸がゴロゴロしている周辺区域には、カモメが群れ飛びかっていました。
社長さんに一通り、工場全体を案内して頂いた後、作業に取り掛かったわけですが、そのお話や昼休みに皆さんからお聞きしたところによると、幸いにも会社の社員で亡くなられた方はいないものの、やはり家族や親戚となると、津波に巻き込まれた方もいて、被害は少なくないようです。
ただ社員が無事だったのは、その前に岩手の沿岸部や気仙沼など、大きな津波に呑まれている情報をいち早くキャッチできた関係で、直ちに山の方に避難する旨、全員に通達がされたそうです。
そして一部は車で逃げたものの、途中渋滞していた関係で、車を捨てて走って逃げたとのことです。しかし中には一旦は逃げましたが、忘れ物をして家に引き返した人や、周辺工場でも地震直後、後片付けを済ましてから業務を終わろうとした所などが、全員犠牲になってしまったとのことです。
ですからその生死を分けるのは、ちょっとした差なんでしょうね。まずは何を置いても避難して自分の身を守る、そのメッセ-ジは身に迫った生々しい体験だけに、私たちにも貴重なアドバイスでした。
2011.08.04
被災地とのミスマッチ No.2053
震災地・東北で例年通り、三大祭りが始まりました。2日に青森ねぶた祭り、翌3日からは秋田竿灯祭り、そして6日に仙台七夕祭りが開幕します。
今年は大震災後のお祭りとあって、「鎮魂」と「復興」への願いが込められたものが目立つそうです。またこれに先立ち、先月には東北6県の県庁所在地の夏祭りが初めて一堂に会する、「東北六魂祭(ろっこんさい)」なるものが仙台市で開かれました。
この東北六魂祭には復興を願い、何と13万人を超える人たちが集まったと言います。また先週末には私が訪れた石巻でも花火大会が開かれたようです。
このように聞くと、何か少しミスマッチのようなものを感じてしまいます。と言うのも、この被災地に気遣ってか、それ以外の地では早々にこの夏予定していた花火大会などを中止した所が少なくありません。
しかし当の震災で痛めつけられた現地は、このように何とか勇気と知恵を出してその開催にこぎつけています。もちろん、大変な人たちが東北にはいっぱいいるのに、自分達だけで賑やかに盛り上がっては申し訳ないというところから、結論が出ていることと思われます。
でも今のような状況を聞くと、早々に中止を決めたところは、少し結論を急ぎすぎたのではないでしょうか。その直後ではどうしてもこのように感情論が先に立ってしまいます。後の祭りですが、何とか開催して少しでもその利益を現地の復興に役立てた方がよかったような気がします。
そんな中、我が町・沼津では市長の判断で、早くから例年通り花火大会を実施することに決めていました。開催するのも支援の1つとして判断し、花火大会は先週末から行われ、土曜日は少し雨に祟られ、月曜日順延となりましたが、予定通り実施されました。
その中で、我が町にしてはなかなか良い企画だなと思ったことが1つありました。震災に直撃された岩手県大船渡市の小学校8校の6年生、137人をこの花火大会に招待したのです。
これは商工会議所が音頭を取って進められたものですが、一時でも震災のことを忘れて、楽しい思い出作りをしてもらいたいと願って企画されたものでした。
もちろん、その趣旨には大賛成でしたので、少しですが弊社も協賛させてもらいました。とにかく、日本中あちこちで同様な招待事業があるようですが、何の罪もない人たち、特に子ども達には一日でも早く元気を取り戻し、復興への大きな手助けになってもらうよう願うものです。
2011.08.03
地味力に率いられたツバメ No.2052
我が愛するヤクルトスワロ-ズが首位を快走しています。近年珍しいことで、初めはいつまで続くやらと高をくくっていたのですが、どうしてどうして、強さはホンモノのようです。
この好調の原因はやはり指揮官である、小川監督にあるのではないでしょうか。新聞にも「地味力が育てた」と、取り上げられていました。
確かに巨人の原監督や中日の落合監督などと比べれば、小川さんをよく知らない野球ファンは結構いるのではないかと思われます。ですから、どちらかと言うと、小川さんは地味であまり目立たない人です。
でも今年の甲子園でも千葉代表を決めた、あの名門・習志野高のエ-スとして、夏の大会、全国制覇を果たした方なのです。でも頂点はそれがピ-クで、その後、中央大学に進んでからは打者に転向して、社会人を経てドラフト4位でこのヤクルトに入団したのです。
プロに入ってからは、なかなかレギュラ-に定着するほどの活躍は見せなかったのですが、当時の関根監督によると「とにかく、小川を見習え」と言わせるほど、くそ真面目なくらい練習には取り組んでいたそうです。
ですから下積み選手への目の掛け方が違っています。今シ-ズン、4番打者として活躍している畠山選手などは、その経験のなかった外野手に転向させ、打撃を生かし、4番を打つほどにまで育て上げています。
これらは2軍監督を9年も務めた成果ではないでしょうか。また昨年、成績不振で途中休養になった高田監督の後を引き受け、19もあった借金を貯金4にまで引き上げたのも、やはりこの人の持っている何かではないでしょうか。
とにかく監督になってから選手の非難は絶対していません。先日の広島戦でも畠山選手の満塁ホ-ムランで逆転し勝ったと思いましたが、その後中継ぎで出て来た押本投手が崩れ、再逆転され負けた後、「私自身の継投を誤った完全なミス」と潔く言い放っていました。
また他の試合においても、2死満塁、一打サヨナラの味方の攻撃で、一塁ランナ-を代えました。そうしたところ、飛んだ打球が二遊間の深いゴロで、二塁手はボ-ルをやっと押さえ二塁ベ-スに投げましたが、走者の足が一瞬早く、セ-フでサヨナラ勝ちとなりました。
これなどは先見の明がある、なかなか渋い采配ではないでしょうか。1軍、2軍問わず、選手全員に目を配っているそうです。またどんな試合展開になっても、記者には丁寧に対応するとのことです。
これがまさに、苦労人だからこそのことです。「選手の力をどう引き出すか」、いつもこう考え続けている指揮官に率いられてのチ-ムは、やはり強いものです。野球以外にも相通ずるものがあるのでしょうね。
2011.08.02
これが中国という事故 No.2051
1週間近く会社を空けていた関係で、すっかり話題がふるくなってしまいましたが、やはりこのお粗末な事故に触れないわけにはいかないでしょう。
もう10日が経ってしまいましたが、中国で起きた高速鉄道の脱線事故です。死者約40名、負傷者200名を出す惨事となりましたが、中国当局の対応にはあまりにも首を傾げたくなるものです。
まあ、これが今の中国を象徴していることなのでしょうが、世界中の人々が驚いたのではないでしょうか。まず第1に、早々に追突した先頭の事故車両を埋めてしまったことです。そして笑ってしまうのは、批判が出てきたので、今度はまたその車両を掘り返していることです。
これなど全く当局の”臭いものには蓋”という、隠蔽体質そのものではないでしょうか。それから被害者の救出に全力を挙げて努めたのかが疑問を持たれるところです。事故から1日半でその運転は再開されました。
その後、事故車両から一人の女の子の生存が発見されました。私たち日本人であっても、よく埋められなくてよかったと思ったほどです。でもよ-く考えてみると、事故の原因究明をそれなりに確認しなくて、よく列車を動かすことができるなと、日本では考えられないその対応です。
それから当初、原因を雷のせいだと天災によるものと発表していましたが、いくら落雷があってもその逆ならともかくとして、赤信号が青になることなど子どもでも考えません。
まあ、私たち日本にとっては、この中国が独自に開発した技術として、アメリカにも特許申請した当初の事実を訝しく思ったわけですが、こうした事態に至るとやはり日本の技術ではなく、中国版新幹線はオリジナルな技術だったんだなと、巷にも変に納得させられたことにもなるわけです。
要は中国当局により、あまりにもこうした高速鉄道計画を急ピッチに進め、安全性重視より、政府の威信と経済的利益を優先した結果なるものと思われます。
改めて日本の新幹線技術のレベルの高さと、無事故神話とも言われている安全運行システムの優秀さを感ずるものです。やはり昔の人が言っているように、「急いては事を仕損じる」そのものですね。
2011.08.01
被災地・石巻を訪ねて No.2050
しばらくお休みしていたカキコミをどうぞご容赦下さい。先週月曜日から東北被災地の1つである仙台と石巻に行ってまいりました。
3.11の大震災以来、できれば早く行きたいと願っていたのですが、なかなか1週間近く会社を空けることが適わず、4ヶ月以上経ってからようやく実現したのです。
現地にはたった一人で乗り込みました。と言っても、ボランティアに関するいろいろな準備については、既に5~6回以上その支援で出掛けている先輩から、貴重な情報を教えていただいてはいました。
そして事前に調べた限りでは、どちらのVC(ボランティアセンタ-)も個人では受け付けず、団体のみと知ったことから、現地にいる中小企業家同友会の仲間の方のお世話で、石巻にある水産飼料会社を紹介していただきました。
この会社で生産される銀鮭の飼料などは、日本で25%ものシェアを持つと聞きました。しかし写真でも紹介するとおり、石巻の沿岸部に位置するため、6mを超す津波の被害で工場の生産設備は壊滅状態となってしまいました。
震災以後、向かいの缶詰工場などとは違って、ボランティアなどの応援が一切なく、自社の作業員のみの力によることから、一面覆い尽くされたヘドロや瓦礫の掻き出しの整理に、2ヶ月近く掛かったと言われます。
そしてようやく復旧に向け、現在は工場内にある生産設備の修復や掃除が始まったところのようでした。そんな中、私に依頼を受けたのは、元々この飼料の加工運搬に使われている、コンベヤに付属の半円筒形状の容器の清掃です。
この容器が写真のように、いっぱいあるわけで、元々魚の飼料の生産設備ですから、その油かすなどが容器の周辺にこびりついているのですが、それに津波によるヘドロが加わっているわけです。
その関係からか、薬品を入れた槽にこの容器を漬けてあるとはいえ、なかなか汚れが取れにくくなっているのです。そして魚関係ですから当然それなりの臭いもするし、それに誘われてかハエも纏わり付いてきます。
でも不思議ですね、そうした単純作業で、お世辞にも良い環境とは言えない作業でしたが、一度も嫌でたまらないと思うことはありませんでした。
それはまた後でも紹介したいと思っている、あまりにも壮絶な被災地の状況をこの目にしたことや、被災者の方々がそれでもあきらめず、何とか頑張っている前向きの姿を眺めたからではないかと思います。
それに会社で一緒に働いている方々からも「秋山さん、休み休みやって下さい」などと、始終気遣って言葉を掛けていただきました。そうしたことが気持ちよくやれたことに繋がっています。
聞くと社員の方々の中には、犠牲になった人はいないということでしたが、その家族や親戚となると、そうばかりとは言えない、酷い状況とのことです。
それにもかかわらず、単なる自己満足の手伝いに過ぎない私などを、温かく迎え入れてくれたのは、やはり東北人特有の優しさと人の良さではないでしょうか。やはり本当に行ってみてよかったと、自分自身、少なくない学びと感じたことをこの先、何回かに分けて紹介させて頂きます。
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