会長の”三行日記”

2011.06.22

バッテリ- No.2030

球児たちの夏が始まろうとしています。我が県は来月9日からこの熱戦の火蓋が開けられるものですが、被災地でも復旧活動の中、例外でなく、この夏に挑まなければなりません。将来、この甲子園を目指す少年たちの、こんな悲しい出来事が紹介されていました。
 
東日本大震災の大津波で、宮城県石巻市の少年野球団「釜小ヤンキース」の団員2人が死亡し、1人が行方不明になった。投手の沢田佑(たすけ)君(11)=5年生=は震災のショックで同市立釜小から転校し、一時は野球をやめようとした。

思いとどまらせたのは、亡くなった捕手の松川空(そら)君(10)と交わした誓い。「空と一緒に野球をしたい」。沢田君は松川君の分まで野球に打ち込もうと捕手にポジションを換え、白球を追う。

いま、あなたの宝物は何ですか?「バッテリーを組んで、6年生の県大会で優勝しよう」。沢田君と松川君は4年生の時から誓い合っていた。「空は自分が投げたいところにサインを出してくれた」と沢田君が話すように、2人は練習でも学校生活でも息の合った仲間だった。

だが、大津波で松川君と鈴木秀和君(当時6年)が死亡し、島悠菜さん(同)が行方不明になった。沢田君は自宅にいるところを大津波に襲われ、2階に逃げて無事だったが「家が船のように浮かんで400メートルくらい流された。近くの家も流されて周囲は湖みたいになった。怖かった」と振り返る。

震災後、沢田君は「空がいないので野球はできない」と感じ、ボールを遠ざけた。「波が来ない学校に行きたい」と家族に訴え、港から約2キロ離れた母親の職場に近い市立山下小に転校した。

沢田君に再びボールを握らせたのは、松川君だった。松川君の自宅を焼香で訪れた時、松川君の母や祖母から「佑君は空のために野球を続けてね」と言われた。その後、団長からは「みんな生きているんだから頑張ろう」と励まされ、団の練習を再開する方針を伝えられた。

5月1日に行われた松川君の告別式。沢田君は泣くのをこらえながら別れの言葉を振り絞った。「空、元気か。おれは元気だ……。気持ちが切り替わった。空と一緒に野球をしていきます」

沢田君は釜小ヤンキースに戻り、グラウンドでは生き生きとした表情で練習に励む。「野球をしていると、どんな球でも捕ってくれた空のことを思い出す。それでも今は野球ができて楽しい。空の分まで頑張りたい」。沢田君は再び親友と誓った。

 
野球でバッテリ-と言ったら、それこそ捕手が女房役と言われるくらい、切っても切れない仲です。よく少年時代のバッテリ-がそのまま高校、大学と進み、活躍している例も少なくありません。
 
それだけに、この掛け替えのない相棒を失ったショックは半端なものではないはずです。今回の予期せぬ大災害はこんなところにまで影響が及ぼしているのです。でも立ち止まっていては何も変わりません。是非もう一度勇気を奮い立たせ、しっかりと夢の目標に突き進んでもらいたいものです。