会長の”三行日記”
2016.07.08
大谷吉継 No.2864
戦国時代の武将の中にこんな友達思いの人間がいることを初めて知りました。その人の名は、今放送中の大河ドラマ「真田丸」にも出てくる大谷吉継という人です。
北の政所の縁故関係から豊臣秀吉の家来として知られていますが、秀吉をして「100万人の軍勢を指揮とらせてみたい男」といわしめた知勇兼備の武将です。
でも秀吉の死後は人間としての風格に好ましく思っていた徳川家康に心を寄せていました。そして家康の会津の上杉征伐にも出陣しするのですが、途中、石田三成のところに立ち寄った際、挙兵の話を持ち出されるのです。
大谷は時代の趨勢として利が家康にあることから、何度も三成に対し思いとどまるように忠告するのですが耳を貸しません。また三成の人望の無さを指摘したりして、親友であるがゆえの忠告だったのですが聞き入れませんでした。
こうして関ヶ原の戦いに移っていくわけですが、結局のところ大谷は三成との友情から西軍に加担することになったのです。勝ち目のない戦にあえて加わることになるのですが、それがなぜなのかは以下の理由からのように言われています。
大谷吉継は若いときから当時は死病として恐れられていたハンセン病を患っていたのです。今回のドラマでは顔は綺麗なままですが、よく時代劇に出てくる彼の姿は崩れた顔を隠すため、白布や包帯で覆っているのを目にします。
二人の間にこんなエピソ-ドがあります。秀吉が起こした朝鮮の役。吉継は軍監として渡朝しましたが、戦後、その功が称えられ秀吉が大阪城で開催した茶の席に招かれました。その席で緊張のあまりか吉継は、鼻水を茶碗のなかに落としてしまうのです。
それを見た諸将は以降、飲む真似をするだけでしたが、席に列していた三成は、何事もないように茶碗のなかの茶をすべて飲み干してしまったのです。その夜、吉継はひとり寝所で男泣きに泣いたと伝えられています。
業病と戦う自身への、へだたりのない三成の友情に感激したためです。関ヶ原の戦いは名将として知られた吉継からすれば、勝利のありかは一目瞭然にもかかわらず、勝敗を超えた彼の行動の裏には三成への友情が何よりも優先し熱く広がっていたのです。
このような戦国の世に限らず、自分自身の損得勘定や出世のためには、平気で他人を出しぬいたり裏切る人が少なくありません。しかしそうした中で、吉継のような友情や義を貫いた人がいたことも事実なのです。特に現代のような割り切った世の中では、忘れてはいけない人間の生き方を学んだような気がします。