会長の”三行日記”

2016.05.19

加藤清正 No.2837

 現在のNHKの大河ドラマ「真田丸」にも出てくる加藤清正の話です。豊臣秀吉の子飼いとして小姓から身を起こした武闘派の人物として知られていますが、築城や治世にも優れた手腕を発揮したことがわかっています。

秀吉の母である大政所と、清正の母が従姉妹か遠縁にあたる関係で秀吉に仕えたわけですが、忠義を尽くした秀吉亡きあとは、徳川の家臣の大名にもなり両家の縁を取り持つこともしているみたいです。

また今度の熊本地震で大きな被害に見舞われた、名城と呼ばれる熊本城を造った人としても有名で、築城術、治世に長けていて、肥後熊本に領国を得てからは、この熊本城は設計から監督までを成し遂げたということです。

後世に伝わっている話としては、西南の役の際、薩摩より北上しようとする西郷隆盛の軍勢の攻撃を受け、政府軍が49日間にわたってこの城に篭城して守り切ったことは有名です。

それは清正の築城術が巧みで、城内に植えた銀杏の木がいざというときのための食料用や、また大広間の畳には、井草の替わりに芋蔓やカンピョウを使い、これも非常用の食料として考えていたことが少なからず功を奏したのではないでしょうか。

また人を見る目、人心掌握術でも秀でた部分があったようです。こんな話が紹介されています。肥後熊本にも加藤清正の名を慕って多くの浪人武士が仕官を求めてやってきたそうです。

たまたま老人、中年、青年の3人の武士が同時期に清正以下側近の面談の機会を得ることができました。面談後、側近達は言葉の端々に有能さをみせた青年武士を登用しようとします。

しかし清正の目は違いました。老人の長く経てきた経験と、中年のヤル気を買いたいというのです。そして「青年武士はどこの家にいっても通用する。あの青年を優秀、有能というのなら当家の青年武士は腐ってしまうぞ。当家の青年武士は優秀 である」と喝破したそうです。

そして実際に登用された老人、中年武士はそれぞれの持ち味を発揮し、家中に大いに刺激を与え、活性化の推進役となったというのです。というように、企業においてもともすれば青年の未熟ではあるが有能さに目がひかれ、登用・採用することも多いかもしれません。

それはそれでいいのですが、自身の経営する企業の状況によっては、それがまた有害となるケースもあることを頭の片隅にとどめておくべきで、老人の知恵・経験、中年のヤル気が必要とされる場合も往々としてあるのだと指摘しています。

このように知恵が働き、優秀であるがゆえに時の政権に恐れられ、うとまれて最後には毒殺されたという説も残っています。またこの加藤清正、いつも腰に米3升と味噌、銀銭300文を入れていて、腰が重いだろうと人から案じられていました。

常日頃から戦時の備えを怠らなかったのです。やはり先を見越した長期的な展望を持っていた人なのでしょう。テレビのドラマでは怪力で秀吉の命に従い井戸に放り込んでしまうような、荒くれさだけが強調しているようですが人の見かけだけでは判断できないということでしょう。