会長の”三行日記”

2016.02.17

ちょっと良い話127 No.2811

 大病院を変えた一人の少女の死という、ちょっと良い話です。東北大病院の正門前にそびえる高さ約3メートルの救命救急の碑。元病院長の山田章吾(67)は碑を建てるきっかけになった16年前の事故を一日たりとも忘れたことはない。

1999年6月23日午後6時35分頃、病院正門前の歩道で自転車に乗っていた宮城一女高(現・宮城一高)2年の女子生徒(当時16歳)がバランスを崩して車道に倒れ、後ろからきた市バスにひかれた。「痛いよ」。苦渋の表情を浮かべていた。

居合わせた誰もが、目の前にある東北最大の医療機関に搬送されると思った。ところが、女子生徒を乗せた救急車が向かったのは、約3キロ離れた別の病院だった。当時、東北大病院に救急部はあったが、現在の高度救命救急センターのように常時患者を受け入れていなかった。診療は夜間や休日に限られていた。

研究第一主義を掲げ、不測の患者に対応する救急医療は研究の妨げになる――。そんな意識が大学側にあったのかもしれない。女子生徒は約3時間後、息を引き取った。

「行ってきます」。朝、いつものように元気に家を出た娘がベッドで人工呼吸を受けていた。女子生徒の母(59)は搬送先の病院に駆けつけた瞬間、腰から崩れ落ちた。娘の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。

新体操部の練習が終わり帰宅すると、リビングで片方の足を持ち上げて、クルクルと回った。「見て見て」。愛くるしい姿を父(61)は今も忘れられない。「目の前の大病院に運んでくれれば、娘は助かったのではないか」。そんな思いが、母の頭を行ったり来たりした。夫とともに精神科に通い、安定剤をのんだ。

どん底にあった家族を救ってくれたのは、事故現場に供えられた花だった。事故から4年後の2003年、両親は東北大病院に呼ばれた。病院長室で「助けてあげられず、申し訳ありませんでした」と頭を下げたのは、その前年に病院長に就任していた山田だった。山田を含めた3人の目から涙があふれ出た。

山田が病院長になって最優先課題としたのは救急医療の充実だった。専門はがんの放射線治療で門外漢だったが、事故現場に絶えることなく手向けられる花を見て、碑を建てることに決めた。

04年4月の除幕式で、山田は「救急医療に対する東北大病院の決意を示すものだ」と述べた。「目の前で倒れた人に手を差し伸べることができなかった。ここで医療に携わる者は、その反省をずっと胸にとどめてほしい」と願いを込めた。

06年、院内に開設された高度救命救急センターには、東日本大震災の際、80人を超える患者がヘリで搬送されるなど、多くの命を救った。女子生徒が生きた年月と同じ16年が過ぎ、母は言う。「そのきっかけを作ったのは娘だった。今はこう自らを納得させているんです。娘は、このために生まれてくれたんだなって」

少女がこのようにして亡くなったのはとても残念な話ですが、悲しいその死をその後、生かせていけば無駄にはならないものです。リ-ダ-の想いは大切ですね。

明日18日より19日まで中小企業家同友会全国経営研究集会が香川県・高松で開かれ、これに参加してきますのでカキコミは休ませていただきます。