会長の”三行日記”
2016.01.21
夕やけその2 No.2798
昨日の続きです。「そんな...ぼくがドロボ-みたいなことをしたら、かあちゃんがビックリするよ。かあちゃん、泣いてしまうもン...」私はその時、土手にすわって、彼に謝ったのです。私は、いや、私だけではなく、院長も保母も、みんな戦災孤児の名を彼にかむせていたのです。
それは常識でもあったのです。でも、ア-坊には通用しない常識なのでした。彼は母親の遺体を見ていない。だから「孤児」ではないのです。私は、自分も幸せな生い立ちではなかったから、あきらめることに慣れていたのかもしれない。
ア-坊や、そして多くの孤児たちに協力(?)して、あきらめることを、かしこい分別だと思っていたのじゃないか?それは「負ける」ことだったのです。ア-坊の脱走は、それからも続きました。何回も何回も...です。そして私は、迎えにゆくのです。何回も何回も。
彼の行く先は、わかっているのだから、私は時間を計って、バスや電車を利用して行けばいい。時には、私が先に言問橋に着いてしまうこともありました。私は橋の下へかくれて彼を待つのです。やがて、彼は、歩きつかれて、ほとんどよろめくようになって到着しました。
しかし私は、かくれたままでいます。せっかく大変な努力で辿り着いたものを、すぐつかまえてしまってはと思うからです。しばらく好きなようにさせておいてやろう...。そ-っと見上げてみると、彼は橋の袂にしゃがんで、石ころをいじったりしているのです。
そうして待っていれば、あの時、手をはなしてしまった母親が、うしろから背中を叩いてくれると信じきっているように...。やがて、こっちが辛抱できなくなり、「さ、ア-坊、もういいだろ?もう帰ろうよ」と手をさしのべると、ほんとうなら、抵抗するか泣き出すところだろうに、毎回同じことのくりかえしだから、照れくさそうに笑って、素直に帰ってきてくれたのです。
「夕やけ小やけ」を歌いながら、土手を歩いて帰ってきたのです。「夕やけ小やけ」は、子どもを愛した人が作った歌にちがいない。日本には、子どものために作られたこんないい歌があるのに、日本の子どもはどうして不幸せななのか。
”お手々つないでみなかえろ、カラスと一緒にかえりましょ...”というのだけれど、ア-坊が帰っていったのは、かあさんの待つ家でなく、衣食も不足の汚い貧しい施設だったことを思うと、永い歳月を重ねたいまも涙が流れます。
いつだったか沼津の町を歩いていて交差点を渡っている時、広告塔(?)から、いきなり「夕やけ小やけ」のメロディが流れてきました。当時(いまは知りませんが)、沼津の街に夕方流れるのが「夕やけ小やけ」だったのです。
私はハタと足が止まってしまい涙滂沱(なみだぼうだ)です。うしろから来た人が「急に立ち止まっちゃあぶないよ」というので、詫びるつもりで、ふりかえった私の顔の涙にびっくり、「イヤ...そんなに怒ったわけじゃありません」と逆に頭を下げられたものです。
ア-坊は、もういいオッサンになっているはずですが、その時、私は8歳の、そうです、8つのア-坊の手を引いていたのでした。いまどうしているのか、消息はつかめないけれど、かならず、子どもを愛し、子どものために、絶対の平和を死守する人になっていてくれると、私は信じているのです。
敢えて私がどうのこうの言わなくても、読んだだけで心温まる話です。