会長の”三行日記”
2016.01.20
夕やけ No.2797
地元の新聞に夕やけという、やはり地元の作家である西村滋さんの話が載っていました。とても素敵なコラムでしたので、是非紹介させてもらいたいと思い、そのまま記させていただきます。
むかし、戦争孤児の養護施設で働いていました。戦争で孤児になった子どもたちの補導員としてです。私は戦争ではなく病死で両親に早逝されていたのですが、孤児の心はわかっているというウヌボレもあったようです。
このところ、世界の「ここかしこ」で、バカな大人のために、戦災孤児(戦争に責任のない子どもたち)が増えてゆきそうな傾向に、私は、私が自分の分身のように大切に思っていた子どもたちのひとり、ア-坊(アキラ)のことを思い出さずにはいられません。
困らされたのは、みんなよく脱走することでした。巷の浮浪児になり、飢えて、病んで、死にかかっていたのが、体力がついてくると自由を求めて逃げてゆく。アタリマエだ、街へ戻れば、靴みがきでも新聞売りでも(そしてカッパライなど)して、自分で食べてゆけるからです。
ア-坊はよく脱走するのだけれど、逃げてゆく先が決まっているのが変わっていました。浅草は隅田川の言問橋の袂(たもと)なのでした。なぜなら、あの1945年、3月10日の東京大空襲の未明、母親と避難民にもまれているうち、手をはなしてしまい、そのまま再会できなくなっていたのですが、私たちは、母親はきっと死んでいるのだと、口には出さないが、そう思っていました。
離れてからもう2年も経っていたし、言問橋を渡ろうとしていた人々は、荷物に火がついて、みんな川へ飛びこんで全滅したと聞いていたからでした。母親が生きているのだったら、母親の方で施設をたずねまわってくれるはずなのだから...
ア-坊でもっと困らされたのは、ほかの子は逃げるにしても、途中で悪いことをして、電車賃や、パン代ぐらいは稼いでゆくの、だけれどア-坊はそれをしないのです。歩いてゆくのです。その施設は東京の郊外にあり、浅草まで子ども(8歳でした)の足では半日近く、途中コ-スをまちがえれば半日以上はかかるのです。
警察に保護されると、迎えにゆくのは一番若い私の役でした。保護される場所は言問橋に決まっているのだから、警察でも顔馴じみになってしまい、保護室に飛び込んでゆく私を見ると、少年係の刑事はニヤリと笑い、やりきれないよというポ-ズをとるのです。
私はペコペコと詫びまくってから、ア-坊を連れて、バス停までの川堤をゆくのだったけれど、決まってそれが夕暮れの刻(とき)になるのでした。まだ住宅の復興も中途半端の頃で、そのさみしい景色を補ってくれるように、美しい夕やけになることもありました。
保母がなけなしのゴハンでこしらえてくれた握り飯を食べさせているうちに、私は急に、こらえていたものがこみ上げて、「おまえ、どうして悪いことをしないんだ」と、補導員にあるまじきことを言ったのです。
「ちょっとチエをしぼれば、遠いところを飲まず食わずでテクテク歩かなくとも、なんとかできるのじゃないか?」すると、ア-坊は不思議そうな顔をして、私をゲンコツでぶっ飛ばすようなことを言うのでした。
続きはまた明日掲載させていただきますが、泣かされる心温まる話だから読んで下さい。