会長の”三行日記”

2015.10.27

歌丸さんの一言 No.2779

 最近病気がちで長い間務めている笑点の司会を休むことがあり、ちょっと心配された桂歌丸さんですが、今は元気に復帰されました。でも少し痩せているのがまだ気になっているところです。その歌丸さんが戦争についての個人の想いを綴っていました。

1945年5月29日、当時、千葉県に疎開していた歌丸さんは、東京湾の対岸に上る黒煙を見ていたそうです。生まれ育った横浜市が、米軍のB29などによる大規模な空襲を受けていたのですが、自分を育ててくれた祖母がそこに残ったままだったのです。

ただただうちの者がどうなったろうっていう、そんな心配ばかりでした」そして8月15日、歌丸さんは周りの大人たちと、ラジオから流れてくる玉音放送を聴いたのです。

今でも覚えていますよ。えらい暑い日でね。戦争に負けたと聞いてほっとした。しめた、横浜に帰れるって思ったんですよ」。そのとき9歳の誕生日を迎えたばかりの歌丸少年は喜んだそうです。

そして迎えに来た祖母とともに帰った横浜は、一面焼け野原でした。歌丸さんの自宅は同市中心部、現横浜スタジアムの近くにありましたが、バラックのような家の中に座ったままで北東に山下公園、南は磯子区の八幡橋が見渡せたと言います。

数百メートル先にある今の横浜中郵便局近くで市電が止まると、何人が降りて何人が乗るか数えることもできたそうです。「なんにもないんだもん。それぐらいすごかった

そんな戦後の貧しさの中、庶民に潤いを与えたのは、ラジオなどから聞こえてくる落語でした。「昭和の名人と言われていた師匠連中が、お客様をうわうわと笑わせていた」。

週2回の落語の放送の熱心なリスナーだった歌丸さんは「これだ」とひらめき、小学4年生の頃に落語家になろうと決意したのです。学校でまねごとをしては友人らを笑わせ、中学3年で弟子入りしました。

そして今や、芸歴60年以上、落語芸術協会の会長にもなった歌丸さんが「だいぶ後で気がついた」ことがあると言っています。「人間、人を泣かせることと人を怒らせること、これはすごく簡単ですよ。人を笑わせること、これはいっちばん難しいや」。

涙や怒りはあっても、「人間にとって一番肝心な笑いがないのが、戦争をしている所」と感じているのです。また今の日本の政治家は「怒り顔」や「ぼやき顔」が目立ち、「油断できない」と話しています。

最近は、メディアで自身の戦争経験を語り、「今、日本は色んなことでもめてるじゃないですか。戦争の『せ』の字もしてもらいたくないですよね。あんな思いなんか二度としたくないし、させたくない」と結びました。

この想いが真実ではないでしょうか。戦争の体験者の声をつぶさに聴くべきです。少しも自身はそうした惨い体験をしていない、時の総理の戦争への語りはあまりにも説得力のないもので、この国をどうしたいのか、少しもその意図が見えません。