会長の”三行日記”
2015.08.28
ちょっと良い話124 No.2752
清宮くんとかオコエ選手、小笠原投手など、今年の夏の甲子園はいつにも増して観ている私たちをワクワクさせてくれました。そんな甲子園が終わり秋風が吹きだして、ちょっぴり寂しくなったこの頃ですが、以前にこの夏の大会で起こったサヨナラボ-クを宣告した審判の心中という、ちょっと良い話です。
青春のすべてを甲子園という夢の舞台にかける球児たち。勝負である以上、どんなプレーにも判定が伴う。大舞台だからこそ、ではなく甲子園に縁のない高校同士の練習試合も、日本中が注目する場面でも、普遍のジャッジがあってこそ高校野球は成り立つ。
1998年夏の甲子園大会2回戦。豊田大谷と宇部商は延長十五回、史上初のサヨナラボークによる豊田大谷の勝利という幕切れとなった。球審を務めた林清一氏(59)に試合を振り返りつつ、高校野球の審判哲学を語っていただいた。
100年の歴史で今のところ唯一のジャッジは、異様な雰囲気の中、“究極の当然”を求めた結果の産物でもあった。人によるかもしれない。ただ、林氏は「下調べをしない」をモットーに、ゲームに臨んでいた。
「コントロールがいいとか、三振記録を持っている、という予断が入ると際どい球のジャッジがぶれるかもしれません。人間には弱さもありますから」完璧でないことを認め「見たまんまで判断する」。長年、自らに言い聞かせてきたことだった。
第2試合。グラウンドは38度。直後に横浜・松坂大輔(現ソフトバンク)の試合が控えており、「あの時点で超満員でした」と振り返った。五回終了時、水を飲んだ。試合は延長へ突入。「水分、差し入れを期待したんですが、来なくてねえ」と笑うが、その時は笑い事ではなかった。
塁審もバテて、打球を追い切れなくなっていた。しかし「早く決着をつけたい、と思ったら、ジャッジが雑になる」と、必死の判定を続けた。十五回裏。豊田大谷は無死満塁の絶好機を迎えた。200球を超える球を投げてきた宇部商のエース・藤田修平はこの場面で、林氏の想定になかった動きをした。
「審判として一番いけないのはビックリすること。そうならないように、あらゆることを想定するのですがあの時、ボークだけは考えてもなかった」と振り返る。「ふらふらで、汗もすごい勢いで流れていた」という林主審の眼前で、プレート板に足をかけた藤田はセットに入ろうとした手を「ストン、と落としたんです」。
林氏は迷わず「ボーク」を宣告、サヨナラゲームとなった。「5万人のスタンドが一瞬、静まりかえって、そこからざわざわする声に変わりました」とその瞬間を振り返った。もし藤田が足を外していれば、ボークではない。「だんだん不安になりました。(ミスなら)やっちゃった、審判人生、終わりだな」とも思った。
もちろん現場やテレビなどを見た同僚、関係者から「間違いなくボークだった」の確認が入った。それでも直後の会見では、報道陣から「なんであんなところでボークを取るんだ」、「注意で終わらせられないのか」といったヒステリックな声も飛んできたという。
この場を収めたのは、ベテラン審判員の三宅享次氏。「審判は、ルールの番人です。以上!」と制した。当時は、四角四面の冷徹なジャッジと感じる向きもあったかもしれない。しかし-。通常、試合終了時は野手のミットやグラブに送球(投球)や、サヨナラなら打球が収まる。しかしこの試合は、投手・藤田の手にボールが握られたままだった。
甲子園の、暗黙のルールとして、ウイニングボールは目立たないように、勝利校の主将にプレゼントされる。が、林氏は2年生投手の藤田が渡そうとしたボールを「持っておきなさい。そして来年、また甲子園に来なさい」と、受け取らなかった。勝った豊田大谷にはポケットから出した試合球を手渡した。
試合を2時間以内で終わらせるため、ひっきりなしに選手を急がせ、機械的に判定を下すのが審判員ではない。とっさに、ウイニングボールを敗戦投手に手渡した林氏。他の試合中にも、さまざまな隠れたやりとりはある。
終盤、つるべ打ちに遭った投手。投球数は増え、何度も三塁、本塁のバックアップに走り肩で息をしている。本塁付近にいれば「頑張れ」と声をかける。大敗の終盤、代打に背番号「18」の選手が出てくる。明らかに足が震えている選手も少なくない。こっそり「深呼吸しなさい」とささやいて、汚れてもいない本塁ベースを掃き、時間を取ってやる。
「甲子園は、誰にとっても一世一代」。少しでもいいプレーをさせてやりたい。林氏は「そういう時のために、通常は無駄な時間を省いて“貯金”をしておくんです」という。 血の通ったルールの番人があればこそ、甲子園で球児は躍動する。
目立ちませんが、こうした審判員の陰の力があるから高校野球は一層盛り上がるのでしょうね。高校野球の人気の秘密を突き止めたようで、思わず胸が熱くなりました。