会長の”三行日記”
2015.07.14
高尾山古墳その2 No.2737
「高尾山古墳を知ろう」という学習会に出掛けてきました。先週土曜日の午前中、沼津市内の第5地区センタ-で行われたものですが、静大教授である篠原和大さんを講師にお迎えしたこの学習会には200人を超える方々が参加していました。
参加者は予想以上の人数で駐車場が車で溢れていたほどです。遠くは大阪の方からも参加された方がいたみたいで、それだけこうした古墳や遺跡といった我が国の歴史・文化への興味や関心の高さを示しているのではないでしょうか。
まず初めに高尾山古墳がどんな古墳なのか触れていました。形状等は前回のこの欄でも触れましたので省略しますが、この作られた場所は当時は今のように高い建物がないことから、駿河湾と田方平野を広く見渡すことができ、かつ愛鷹山の山塊越しに富士山を仰ぎ見ることができます。
できればもう少し高台の方が駿河湾などを望むのには格好ですが、それでは富士山が愛鷹山に隠れて見えなくなることからこの場所が選ばれたのではないかということです。ですから古墳の巨大さと富士山の威容を背後にすることで、その威信を示そうとしたのではないかと言われています。
また古墳を造るという意味は、初期の農耕社会はお互いが協力関係を持つ農業共同体的社会でしたが、その中で人物や集団が権力を握るためには、権力の根拠となる威信やその継承の正当性を示す仕組みが必要で、独立巨大な墳丘を持ち、その威信を示す副葬品の納める築造物が役割を果たしたというわけです。
それからつくられたのがどんな時代かということですが、築造230年、埋葬250年と言われる時代は、農耕集落であった登呂遺跡の最後が洪水に襲われたのが127年頃で、それから100年後と言われています。
この作られるまでの間は、洪水や干ばつが繰り返されていた厳しい環境の時代であったと考えられています。ですから高尾山古墳の北側2kmに当たる地域には、こうした環境悪化を避け移り住んだと見られる高地性集落の遺跡群も発見されています。
そして倭国乱の後(2世紀末から3世紀初頭)の時期は邪馬台国の女王・卑弥呼が登場しています。その活躍の時代は3世紀前半で、中頃に没して巨大な墓を造ったと言われていますから、ちょうど築造され高尾山古墳に被葬された権力者とは同年代に活躍し埋葬されたと思われます。
つまり卑弥呼の時代と接点を持った可能性が高いわけです。また倭人伝の中では大和を中心とした卑弥呼の邪馬台国と東日本地域との抗争が記されていることから、高尾山古墳の主はその対抗勢力であったという見方ができるということです。
そうなると高尾山古墳の存在が日本の歴史を正しく理解する上で、欠くことのできない一級の文化遺産とも言えるわけです。こうした文化遺産は保存するからこそ、さらに調査研究が進むというものです。
この度世界遺産に登録された、韮山の反射炉も残されていたからこそ登録されたわけです。ですからこの高尾山古墳も今回の学習会で、改めて極めて重要な遺跡だということを知らされ、とても取り壊されるものではないことを強く感じました。
要するに残していけば我が街の重要な史跡になることは間違いなく、多くの人々から愛されるのではないでしょうか。
明日15日は客先への挨拶回りで会社を留守にしますので、カキコミは休ませていただきます。