会長の”三行日記”

2014.12.17

外で戦ったら日本は終わり No.2663

 故林家三平さんの奥さんである海老名香葉子さんが戦争の悲惨さを訴えていました。戦時中、我が街・沼津にも疎開していてご縁のある方です。先日もこの疎開当時、通っていた小学校の同窓生と70年ぶりに対面したとの記事も読ませてもらいました。

その海老名さんが「外で戦ったら日本は終わり」と強く言っているのです。「私は自国を守る自衛隊には反対ではありません。でも武器を持って外に出て行って戦うことは絶対に避けるべきです。そんなことをしたら日本はおしまいです。

安倍晋三首相は息子の襲名披露にも出てくれて借りはありますが、戦争だけは絶対にだめですと言いたい」80歳を超え、戦争を体験した海老名さんだからこそ、こう言えるのではないでしょうか。

昭和19年7月に東京本所から沼津市に一人で疎開してきた海老名さんですが、その時は10歳、家族と別れる前に白いご飯を食べたそうです。母がくれた新しい防空ずきんに、大好きな友禅の切れ端が縫ってあって喜んだら、母は嬉しいわと言って涙を流しました。

またかわいい弟の4歳の孝之輔さんに「空襲警報が鳴っても泣いちゃだめよ」と言い残してきたとのことです。その両親や弟はじめ、祖母、長兄、次兄は1945年3月10日の東京大空襲で全て亡くなってしまったのです。

ただ一人生き残った中一の兄である喜三郎さんがその3日後に沼津にやってきました。唇は腫れ上がり、服はぼろぼろの出で立ちです。家族が亡くなったことを初めて知るのですが、母は4歳の弟を抱いて伏せ、父はその上に覆いかぶさっていたと聞きました。

そしてその後、叔母夫婦と石川県に移り終戦の玉音放送を聞いたのです。叔母が「お父さん、お母さんは犬死だね」と言って泣き、本人も心が折れてしまいました。こうして親戚からも見放され、戦災孤児となってその日生きることに必死な毎日が続いたのです。

こんな悲惨な体験者だからこそ、もう二度と繰り返したくないという思いが人一倍強いのでしょう。海老名さんは80歳を超えてはいますが、あと30年は生きて、戦争の悲惨さをご自身の体験談を通して伝えたいと言います。

このように実際に体験した人の言葉は何よりも重いものがあります。それだけに現在の日本から、こうした惨い戦争体験者がどんどん少なくなっていることが残念です。日本の行く末を、まさに机上の空論で感情だけが先走った結論は本当に危険だと考えています。

明日は私用で一日会社を留守にしますので、カキコミを休ませて下さい。