会長の”三行日記”

2013.06.27

歴史人物に学ぶ2・山田方谷 No.2419

 山田方谷って知らない方が多いのではないかと思いますが、幕末期、破綻寸前だった備中松山藩(現在の岡山県高梁市)の財政を立て直したことで知られている人です。

当時の負債額は10万両、現在に換算すると100億円以上にもなる大金です。それをたった8年で黒字に転換し、しかも余剰金を10万両蓄財させたと言われています。驚くべきその手腕ですが、その改革手法はそのまま現代の企業再生の手法にも通ずるとのことです。

幕末の日本には260余りの藩があり、それぞれの大名による経営で、完全な自己完結型経営でした。でも当時は石高制の崩壊や商人の台頭による貨幣経済が主流で、ほとんどの藩が困窮していたそうです。開国後、力のある大名は商社化し、武士は商人化することで破綻寸前の財政を立て直したのです。

この松山藩も同様で、藩主でもない山田方谷という、農民出身にもかかわらず、後に学問で身を立て藩士となった人物により藩政改革が行われたのです。当時では異例の出世で、養子だった藩主・板倉勝静が幕府の寺社奉行や老中に抜擢された関係から、留守がちな自藩の建て直しを信頼のおける方谷に委ねたのです。

作家の童門冬二さんはその著書「山田方谷」で、現代で言えば養子社長と農民出身総務部長というコンビで改革を行ったと表現しています。それでは改革前はどのような実態だったかというと、当時の藩の経済力を表わしていた石高(とれる米の量)は、公称5万石と言われていましたが、実際の年貢高は2万石にも満たなかったと言います。

従って石高の半分にも満たない収入で、2倍以上の5万石に見合った税を幕府に収めていたわけですから、10万両もの借金ができるわけです。まさに粉飾決済とも言えるものなのです。ではどうやって藩予算の5倍以上の借金を返したのかは、下記の改革概要に示すとおりです。

① 借金元の大阪商人に藩財政を公開し、返済期限を延期してもらった

② 家中に質素倹約を命じ、上級武士には賄賂や接待を受けることを禁止した

③ 過剰発行で信用を失った藩札を領民の前で焼却、新藩札を発行し兌換を義務化

④ 藩内で採れる砂金から農作業効率のよい「備中鍬」を作り、大ヒット商品となる

⑤ 農産物の特産品化と専売化(タバコ、茶、ゆべし、そうめん、和紙を「備中」というブランドで売り出す)による藩の会社組織化

⑥ 中間マ-ジンを排除するため特産品は船で江戸に直接運び、江戸の藩邸で直販

⑦ 藩士以外の領民の教育にも重点を置き、優秀者は出身に関わらず藩士に登用するという人材育成

このような現代にも通用する手法を実践し、見事、藩の財政再建を行った山田方谷ですが、成功の秘訣は何よりも率先垂範だったと言います。方谷に対するねたみや悪口も多かったものですが、藩の財政ばかりを考え自らの家庭を省みず、山田家は窮乏し、山の中の荒地を開墾して食い扶持を稼いでいたという、身銭を切って藩のために尽くしたという姿に感動する者も多かったからです。

大切なのは率先垂範で、それを下の者に強要しないことだと言います。現在で言えば、「社長の私がここまで努力しているのだから、部下の君たちもそうしろ!」という言葉です。つい口に出したくなる言葉でしょうが、それを言ったらお終いというものです。そうした心を磨くのには自らトイレ掃除をやるのがよいかもしれません。やはり自らに厳しく、実践あるのみです。