会長の”三行日記”
2012.10.02
山田方谷 No.2287
山田方谷って名前をご存知でしょうか。私は知らなかったのですが、幕末期、破綻寸前だった備中松山藩の財政を立て直した方です。この藩は現在の岡山県高梁市に当たるところです。
当時の備中松山藩の負債額は10万両と言いますから、現在の100億円以上になります。これをたった8年ぐらいで、黒字に変え、しかも逆に10万両もの蓄財を残したと言います。以下は現代にも通じるその改革手法です。(一部省略)
幕末の日本には260余りの“藩”があり、それぞれ大名が経営をしていた。完全な自己完結型財政であり、石高制の崩壊と商人の台頭による貨幣経済の浸透で、ほとんどの藩が困窮していた。
開国後、力のある新進的な大名は商社化し、武士は商人化することで破綻寸前の財政を建て直した。備中松山藩もそのひとつ。その建て直しをわずか8年でなしとげた人物――山田方谷。藩政改革といっても上杉鷹山のような藩主ではない。
備中松山藩の農家の出身だが、学問で身を立て藩士になった、当時では異例の出世をした人物だ。養子藩主板倉勝静が、崩壊寸前の江戸幕府の寺社奉行、そして老中に大抜擢され、幕政に集中。そこで自らの師であり、絶対の信頼をおく方谷に藩の改革をゆだねたのだ。現代でいうと社長の腹心、参謀となる会社役員である。
作家の童門冬二氏は、その著書において「留守がちな社長の代行者。主人である社長が中央の連合団体の役員を務めたために、会社の業務は重役の方谷が背負って立った」や「養子社長と農民出身総務部長というコンビで改革を行なった」と表現している。
さて、方谷が改革にあたる前の藩の財政を見てみると・・・・・・。当時の経済力はその藩でとれる米の量(単位は「石(こく)」)で表わされた。国でいう税収の総額、会社でいう総売上高である。備中松山藩の場合公称5万石。親会社である徳川幕府には、この5万石に見合った税を納め続けていた。
ちょっとまった! をかけたのが方谷。藩の予算管理をする「大福帳」の整理(彼は日本で最初に簿記を実践した人物ともいわれる)、年貢高の調査を徹底的に行なうと、実質2万石にも満たないことが発覚。公称石高の半分にも満たない収入で、2倍以上の支出を行なっていたことになる。
メンツを重んじる時代だったとはいえ、これでは借金が10万両もありえる話だ。現代でも会社のよし悪しを判断するときに指標とする年商、大きく見せたい気持ちは経営者なら理解できるだろう。備中松山藩が行なっていたのは、まさに粉飾決済。
では、藩予算の5倍以上の借金をどうやって返したのだろうか? 改革の概要をかいつまむと以下である。
1. 借金元の大阪商人に藩財政を公開し、返済期限を延期してもらった
2. 家中に質素倹約を命じ、上級武士には賄賂や接待を受けることを禁止した
3. 過剰発行で信用を失った藩札を領民の前で焼却、新藩札を発行し兌換を義務化
4. 藩内で採れる砂金から農作業効率のよい「備中鍬」を作り、大ヒット商品となる
5. 「撫育局」を設置し、農産物の特産品化と専売化(タバコ、茶、ゆべし、そうめん、和紙を「備中」というブランドで売り出す)による藩の会社組織化
6. 中間マージンを排除するため特産品は船で江戸に直接運び、江戸の藩邸で直販
7. 藩士以外の領民の教育にも重点を置き、優秀者は出身に関わらず藩士に登用するという人材育成
現代でも通用する手法もある。これらを実践し、藩の財政を見事に立て直した。改革断行の裏には、農民上がりの方谷に対するねたみや悪口も多かったが、それもやがて減っていった。藩の財政ばかりを考え家庭を顧みず、山田家は窮乏。仕方なく山の中の荒地を開墾して食い扶持を稼いでいた、という方谷の身銭を切って藩のために尽くした姿に感動する者も多かったからだ。
トップによる改革は率先垂範が肝要だ。ただし、それを下の者に強要しないこと――これが方谷の考えだ。現在でも同じことがいえるのではないだろうか。「社長の私がここまで努力しているのだから、部下の君たちもそうしろ! 」といわれたら部下は反発する。方谷はそれがわかっていて、トップの板倉勝静にもその辺は釘をさしていた。
日本資本主義の父と言われる渋沢栄一氏も方谷の影響を強く受けていると言われます。やはりトップ自らの率先垂範でなければ大きな変革は望めないものです。現在多くの企業が置かれている、決して楽とは言えない日本企業再生のヒントとも言えるのではないでしょうか。