会長の”三行日記”
2012.01.23
大川小の悲劇 No.2141
東日本大震災の津波で児童74人、教職員10人が死亡・行方不明となった石巻市の大川小学校で、3度めとなる説明会が開かれました。約7ヶ月半ぶりの開催とのことですが、子どもを亡くした保護者からの強い要望で、何とかここまでこぎ着けたものです。
何しろこの日まで正式な形での、学校側等、教育関係者当局による正式な説明や謝罪がなかったゆえに、愛する子どもを失った保護者の立場からは、「なぜ?」と、とても納得できるものではなかったからです。
説明会では、学校側がきちんとした避難マニュアルを作成しておらず、以前実施していた避難訓練も校庭に集まるだけで、それ以上の避難を実施していなかったことが判りました。
ですから震災当日も、児童や教員が避難を始めたのは、発生から約45分経ってからで、小学校から一番近い高台だった裏山が地震による倒木の恐れがあるとのことから、約200メートル西の橋のたもとの交差点を目指している途中に津波にのまれてしまったのです。
自宅から車で学校に迎えに来て、辛うじて難を免れた児童やその保護者の話によると、地震直後、先生の指示で校庭に集まり、座って点呼をとっていた児童の中には、その恐怖から泣き叫んだり、嘔吐をする者もいて、だいぶ混乱していたようです。
そして避難を始めた当時の様子を一人の児童が以下のように語っています。すごい音がして、津波が前から来た。腰を抜かし、その場に座り込んだ子もいた。自分で判断して、裏山に逃げた。
竹林で他の男の子2人と大人十数人と一緒になり、一晩過ごした。大人が持っていたライターで火をおこした。「眠れば死ぬんだからな」と言われ、一睡もしなかった。
おそらく、ちょっとしたタイミングの差が生死を分けてしまったのでしょう。この裏山になぜ逃げなかったのかというのが一番の疑問になっているようですが、まずここまでの津波到達を市が予想していなかったことと、裏山への道が滑りやすかったことも原因の一部としてあったようです。
学校長も山に避難場所をつくろうと職員で話はしていたみたいですが、裏山は泥炭地でつるつる足が滑るので、階段をつくれるといいなと話しているうちに、そのまま震災になってしまったというのです。
このように聞くと、誰が悪いというわけではないのが、今回の大震災の実情なのでしょう。先生たちは必死に子どもを守ろうとしていて、自らも被害に遭ってしまったのです。
ですから辛いのは、当日所用で学校を留守にしていた校長と、教職員11人のうち、たった一人生き残った先生なのでしょう。この先生にしても、避難の最中、負傷しながらも近くの男児1人を押し上げるように助けたと言われています。
でも心身疲れ果ててしまって、現在は休職中と聞きます。天災だけではなく、半分は人災とも呼ばれている、この大川小の惨劇も、誰をも責めることのできない、今回の大震災がもたらした大きな悲劇ではないでしょうか。