会長の”三行日記”

2011.02.03

ちょっと良い話part71 No.1949

またまた、ちょっと良い話を見つけましたので紹介します。おばあちゃんの緊急電話という、NTT西日本のコミュニケ-ション大賞に選ばれた、グランプリ作品ですが長文のため途中一部省略してあります。
 
彼に初めておばあちゃんを紹介されたのは、十九になる春だった。玄関先で出迎えてくれたおばあちゃんに挨拶した。明治生まれのおばあちゃんは、思っていたよりずっと大柄で、体格のいい彼はおばあちゃん似だと思った。おばあちゃんは、「チヅルはんと言うんか。」と、ニコニコして言った。

「いえ、チヅコです。」と、訂正したが、それを無視するかのように、おばあちゃんは中へ入ってしまった。きょとんとしている私に、彼が「気にしないで。」と、二階へ案内した。

彼とは同学年で、級友を通じて知り合い、お互い恋が芽生えて交際するようになった。油絵を描く彼と芸術的な雰囲気に包まれて談笑していると、突如バタンと戸が開けられた。驚いて振り向くと、おばあちゃんが小さなお盆を両手に持って仁王立ちで立っていた。お盆の上には、ティーバッグのひもが垂れたカップが二個載せられている。

「バァちゃん、唯でさえ脚が悪いのに…。」彼がおばあちゃんを気遣った。目の前に並べられたカップのソーサーには紅茶がかなり零れていた。おばあちゃんが階段の手すりを掴まりながら持って来てくれたと思うと、申し訳なく思ったが、とても嬉しかった。疲れ果てたおばあちゃんはへなへなと座り込み、私が帰るまでそこに座っていた。

「バァちゃん、よっぽど嬉しかったんやなぁ。オレの家、誰も来んからなぁ。お客さんが嬉しんや。バァちゃん、オレがおらんかったら、いつも独りぼっちやからなぁ。」彼が送ってくれながら言った。 

「じゃあ、私、ちょくちょく遊びに来るわ。」 それからというもの、私は頻繁におばあちゃんに会いに行った。クッキーを焼いたり、ケーキを作っては持って行った。おばあちゃんは、その都度、私の手を握って同じ昔話をした。私はそれをフンフンと、何十回も頷いて聞いた。

おばあちゃんは夫を早くに亡くし、残された二人の幼子を女手一つで育て上げてきた。行商から始め、田舎から大阪に出て、うどん店を持つまでになった。孫ができてからは、引退し、子守をするようになった。彼の両親は、おばあちゃんの後を継いで、その店を切り盛りしている。

そんな話を聞き、カギッ子として育った私は、おばあちゃん子で育った彼を少し羨ましく思った。おばあちゃんは、相変わらず私を「チヅルはん」と呼び、孫のように可愛がってくれた。

しかし、一年ほどして彼と私は、別れた。些細な事で喧嘩するようになり、彼への不満が募っていた。社会人として働き出した私の目に、彼が幼く見えた。 それから瞬く間に一年が過ぎた初冬、突然、おばあちゃんから電話が掛かってきた。

「剛士が交通事故や。病院は、○△や。直ぐに行ったって!」「えっ!? でも私、もう一年も前に別れてるし……。」 私の言葉を打ち消すように、おばあちゃんはガチャンと電話を切った。

一瞬、迷った。久し振りに聞くおばあちゃんの声。初めて聞くおばあちゃんのドスの利いた声……ただ事ではない。逆らえない……。命令されるまま、病院へ行った。

CTスキャンの台に乗せられ、全身を調べられている彼を見た。幸い、命に別状なく、左足骨折、一ヶ月の入院と診断された。私の姿を見て驚いている彼に、事情を説明した。彼は素直に喜んでいた。そして、何度電話をしようと思い、受話器を取った事かと、打ち明けてくれた。

私たちは、自然にこの一年間の空白が無かったように、普通に喋っていた。私は、彼が退院するまで毎日見舞い、おばあちゃんにも会いに行った。「おばあちゃんの迫力には負けたわ。おばあちゃん、カッコイー!」

「そうか。」おばあちゃんは笑っていた。私は、よたよたと頼りなげに歩くおばあちゃんの後ろ姿を見ながら、イザという時の明治女の気骨を見たように思った。それから半年、またいきなり、「嫁に来えへんか。」おばあちゃんからプロポーズされた。

私の横にいた彼の方がびっくりしていた。「オレより先に言うなよ。」 でも、私は返事した。「はい。」 こうして私は彼の元に嫁ぎ、今年で三十年になる。

おばあちゃんは、私が嫁いだ二年後、ひ孫の顔を見て天国へ旅立った。おばあちゃんがあの時、緊急電話をくれなかったら、今の私の幸せはなかったように思う。ありがとう、おばあちゃん。

 
二人の恋のキュ-ピットがこのおばあちゃんだったわけです。紅白出場からまたまた注目を浴びている「トイレの神様」もそうですが、私たちは先人から教わることが少なくありません。そういった意味からも、もっとその方たちの力を引き出せるよう、人に優しい社会を築いていきたいものです。