株式会社 アイソー




2010年08月の日記

急がば廻れ

[2010年08月31日(火曜日)|No.1873]

私たちの仕事は手間が掛かっても、地道な一歩一歩の積み重ねが大切だと、つくづく感じました。お盆の時期が少しまとまった仕事により忙しかった関係で、別の2箇所のお客様から依頼されていた案件が残作業となっていました。
 
その1つはまだ済ませていないという、体たらくなのですが、先週末処理した仕事については、時間が掛かって面倒でも、手順を踏みながら処理していくことの大切さを学びました。
 
お客様が導入した機械は、品物を熱処理して封印するため、電磁弁でシリンダを下降させ、少しの時間そこで停止していなければいけません。それが下降しても停止せず、すぐ上昇してしまうのです。
 
そうしたそんなに難しくない動作条件なのですが、これを直してもらうよう依頼を受けたのです。それでも厄介なのは図面が一切ないのです。しかし、以前はこの仕様で使っていたものと判断し、既設の回路の中身まで疑っては掛からなかったのです。
 
結果から考えると、これが余分な時間をとらせることになってしまったのです。今まで使っていたものと判断したことから、回路の不具合というよりは、単純な配線ミスや機器の故障ではないかと考え、あちこち、いろいろと確認してみました。
 
ところが、どうしてもうまくいきません。そしてついにはその日は一日中、掛かりっきりになってしまったのです。夕方になって、これでは拉致が明かないと考え、ようやく面倒でも既設の回路を一本、一本調べながら図面に書き出し始めました。
 
元々それをなぜしなかったかというと、使用している線が単線で細く、面倒で調べにくかったこともあります。でも、もうそんなことを言ってはいられなくなってしまったのです。
 
こうして翌日まで掛かり、細かな線を追い掛けながら回路図を作成してみました。そうしたところ、ようやくその回路の不具合に気づくことができたのです。もちろん、それまでの回路では何か別な細工を施していたのでしょう。手直しする前の回路のままでは、もちろん仕様どおりの動きにはなりません。
 
そして回路さえ、しっかりと把握すれば、あとはそんなに難しいことはありません。こうして時間は掛かりましたが、お客様の望みどおりの動きに、何とかすることができたのです。
 
急がば廻れ、面倒でも1つ1つ調べていかなければ、解決のゴ-ルには達しないのです。そこで変に手を抜いたり、結果オ−ライ的なもので済ませようと思っても、やはりそんなに甘いものではありません。
 
もちろん、苦労しただけに、望みどおりに動いたときは嬉しいものでしたが、それ以上に反省することが少なくなかったように思えます。技術を売るということは、このように甘いものではないものです。


黙祷の意味

[2010年08月27日(金曜日)|No.1872]

18歳の高校生が新聞に次のような投稿をしていました。
 
私には以前から疑問に思っていることがあります。それは8月15日に政府主催で行われる「全国戦没者追悼式」のことです。
 
政府はこの日を、日本国民が戦没者を追悼し平和を祈念する日と定めていますが、毎年追悼式を放送しているのはNHKだけで、テレビの他のチャンネルを回すとバラエティーやワイドショーを放送し続けています。
 
私は高校生ですが、黙祷のことを知っている友達は周りにほとんどいません。大人でも忘れていたり、その存在すら知らない人もいます。
 
また知っていても「あれってやらなきゃいけないの?」「やりたい人だけがやればいいじゃん」という声もあります。
 
こんなに国民の意識が低いのは、あまりにも情報が少なすぎるからです。平和を祈るということは強制されてするものではありませんが、マスメディアがそのことを考える場を多く提供すれば、今のような状況は少しずつでも変わってくると思います。
 
テレビ局の方々、8月15日の正午にせめて1〜2分間だけでも、黙祷の場面を放送することを考えていただけないでしょうか。

 
過日、終戦記念日の夜、「15歳の志願兵」というNHKドラマを観ました。愛知1中の将来ある、優秀な生徒たちが周囲の情勢に流されるような形で、志願せざるを得なくなり、そして尊い命を失っていくという実話に基づいたドラマです。
 
このドラマを眺めただけでも、今日の平和はそうした貴重な犠牲に基づいていることや、今の時代の有り難さを知ることができます。
 
お隣り韓国では日本と違い、ある年齢に達すると徴兵制度により、兵役の義務につきます。それはスポーツ選手や芸能人だろうと例外を認めません。
 
それがないだけでも、我が国は素晴らしいと言えるのではないでしょうか。もっとも、そうした制度があった方が若者らしく心身共に鍛えられるという声もありますが...

とにかく投稿の高校生が言われるように、1年のたった1〜2分間でも、そうした意味をしっかりと考える時が、今の我が国には必要な気がしています。
 
来週、月曜日の30日は私用で休暇を取らせていただきますので、カキコミは休ませて下さい。


もう1つのドラマ

[2010年08月26日(木曜日)|No.1871]

この夏の決勝、興南高と東海大相模高の試合で、もう一つの素晴らしいドラマがありました。歓声と指笛が鳴り響く地元の熱狂的な喜びの陰で、何とも言えない複雑な思いの二人が、敗れた相手校の中にいたのです。
 
東海大相模の一塁と捕手を守る、大城建二君と大城卓三君の双子の兄弟です。実家は興南高のある沖縄にあり、現・東海大学でプレーする、兄の昌士さん同様、沖縄から東海大相模に進学していたのです。
 
皮肉なことに甲子園で決勝まで勝ち進み、対戦したのが郷土沖縄代表の興南高だったのです。
 
この試合の4回、一挙7点を奪った興南高の怒濤の攻めの最中、オレンジのメガホンが揺れ、球場全体が指笛と沖縄のリズムに包まれた中、一塁を守る建二君は自分への声援だと思い込むようにしたそうです。
 
続く5回、建二君は中前安打で出塁すると、次打者の左飛でタッチアップし、すかさず二塁への好走塁を見せ、卓三君も8回の最後の打席、執念の中前安打を放ち、負けられない意地を見せます。
 
この二人の子供たちをアルプススタンドで見守っていた母親は、普段見られない息子たちの成長を実感したそうです。兄弟が里帰りする度に一回り大きくなっているからです。
 
親元を離れて親の有り難みが分かったと、言うまでになっています。でもこの両親でも、決勝戦で興南と当たることになって、心中複雑だったようです。
 
しかし、兄弟はこの日、球場で試合前、こう言ったそうです。「自分たちは沖縄県民でもある。その声援を受けてプレーできるなら嬉しい。僕らは、沖縄の代表でもある」
 
二人の心中察するところがありますが、正直な気持ちではなかったでしょうか。また「決勝で沖縄代表と対戦できたのは一生の財産。残念だけど、優勝旗が沖縄に行くのは嬉しい」という言葉が全てを語っています。
 
私たちが考えている以上に、この50年以上もの沖縄での高校野球の歴史は、本土での選手権制覇という強い悲願に支えられていた、重いものではなかったでしょうか。
 
この興南高の快挙は、なぜ沖縄ばかりが犠牲になるのか、また少しも沖縄県人の思いを理解していないといった、全ての沖縄県人のやりきれぬ想いまで見事に晴らしてくれました。
 
沖縄県民全員で掴みとった優勝です」と語ってくれた、我如古主将の言葉にも表れています。そういった意味でも、興南の快挙は今年の長くて暑い夏の、一服の清涼剤になったのではないでしょうか。


初めての富士登山

[2010年08月25日(水曜日)|No.1870]

この前の日曜日に、延び延びとなっていた富士登山に挑戦しました。昨年来、一緒に行く行くと言っていながら、なかなか実施できず、同行してもらう友人にはすっかり迷惑を掛けてしまっていたことから、何とか今年中には実施したかったのです。
 
予報では当日の富士山の天気は晴れ、夕方からちょっと崩れるかもしれないと言った程度ですから、友人からいつの間にか付けられた、雨男なる不名誉な汚名は返上できるものと、朝7時前、勇んで家を飛び出して行きました。
 
私にとっては全く初めての富士登山ですが、マイカー規制等のいろいろな条件を考えて、友人の仰せの通り、今回は御殿場口から登ることにしました。
 
比較的空いていると言われていた御殿場口なのですが、やはりシーズン最盛期なのでしょう、若い人たちを中心として、結構なかなかの賑わいを見せていて、第1駐車場は1台も停められない状態でした。
 
それでも第2には停車でき、朝8時過ぎ、いよいよ登山開始です。ここは太郎坊と呼ばれているらしいのですが、足下は岩とか小砂利といった道ではなく、砂地のような足下の緩い地面が続きます。
 
これがくせ者で、まさかその後の登山に大きな影響を与えるものとは、そのときは少しも気がつきませんでした。最初は気分的にも高揚していることから、軽快そのものでしたが、歩き始めて小一時間も経つと、もうしんどいのです。
 
結構、脚には自信のある私ですが、だんだん歩くに連れて不安が募ってくるのです。それから歩き始めた御殿場口が新5合目ということでしたから、2〜3時間も歩けば6合目に着くものと思っていたのも大間違いでした。
 
歩けど歩けど、下が緩いのも手伝ってなかなか進まないのです。こうして、やっとの思いで6合目に着いたのが13時になろうとしている頃でした。
 
ですからたどり着くまで、4時間は優に掛かっているのです。予定ではその日は山頂まで行き、帰路大砂走りを通って同じ御殿場口に帰ってくるつもりでした。
 
でも時間的に少し不安になってきました。こうして何とか7合目までは登ったのですが、その時既に15時を回ろうとしていました。
 
この結果、友人とも相談して今回の登頂は断念せざるを得なくなってしまったのです。事後、聞くところによると、富士山への登頂ルートは4つあるのですが、その中でもこの御殿場口ルートが最難関であることを知りました。たぶんここの新5合目が富士宮口の2合目ぐらいに相当するのでしょう。
 
毎年、何万人とも言われる登山客がいる中で、御殿場口から登頂を極める人は数百人しかいないと言うのです。少し事前での学習が不十分でした。
 
このルートしかまだ知りませんが、やはり富士山は日本一の山ですね。そんなに甘いものではありません。
 
こうして初めての挑戦は失敗に終わったのですが、一度別のルートで登った上で、悔しいから是非、再度挑戦しようと思っています。


河村市長の更なる挑戦

[2010年08月24日(火曜日)|No.1869]

名古屋市長・河村さんが相変わらずの奮闘ぶりを見せています。議会のありように耐えかねた住民ではなく、本人が直接、市議会解散の直接請求(リコール)に向けた署名集めに乗り出しているのです。
 
この議会との対立は就任当時からご承知の通りですが、「議会は市民が立ち上がらんと思って、なめとる。署名が始まりますので、力になってちょうよ」と言って、市内の繁華街でマイクを握り、署名への協力を訴えています。
 
河村市長が市長選で掲げた最大の公約は、市民税の恒久的な10%減税です。当初、その扱いで議会と大モメになったものの、何とか議会が受け入れ、10%減税は今年の6月から実施には至っています。
 
それではなぜ?と思われるかもしれませんが、議会が取り決めたのが1年限りという議決に修正したからです。これが恒久的と掲げている、市長と議会との対決を決定的にしたのです。
 
しかしながら、このリコールに向けた署名は1ヶ月に36万5千人分集めなければなりません。これは名古屋市の有権者数、約180万人の1/5に当たる莫大な数です。
 
また署名には生年月日と押印も必要とのことですから、なかなか思うようにはいかないのではないでしょうか。でも市長側は既に支援団体に協力を呼びかけ、ハガキを100万枚近く発送を済ませております。
 
そしてこれに応えて、実際の署名活動に携わる受任者への登録が4万2千人もあると言われています。ですから、この人たちの活動如何では、決して不可能なことではありません。
 
さてどうなることでしょうか。市長の思惑通り、予定の署名が集まれば今年末から来年早々に掛けて、市民による住民投票が始まり、その結果が過半数を超えれば議会は解散となります。
 
議会が解散すれば市長も市民に再度信義を問うため、辞職すると言いますから、来年2月に予定されている知事選と併せ、トリプル選挙となるわけです。
 
是非その経緯を注意深く見守っていきたいと思います。市長がその周囲に漏らしている通り、1年でできない改革は4年掛かってもできないということです。
 
やはり、まず行動ありきで、動かなければ何も変わるものではありません。依然としてコップの嵐で、代表選にうつつを抜かし、国民不在の政治を繰り返している、時の政府とは大きな違いです。
 
このような行政改革に何も手を着けられない政府と違って、議員定数の大幅な削減をやはり目指している、河村さんの挑戦は大いに期待の持てるものです。


興南高の快挙

[2010年08月23日(月曜日)|No.1868]

沖縄・興南高がついにやりました。春夏連覇でしかも夏の選手権大会、初めて深紅の優勝旗が沖縄の地に渡ります。とても喜ばしい限りではないでしょうか。
 
普天間やら辺野古だの、時の政府に言いように振り回されていた沖縄に、何よりも元気の出る明るい話題ではないでしょうか。この興南高の快挙に沸く、地元・沖縄のみならず、日本中で拍手を送っている人は少なくないものと思われます。
 
それにしても、その勝ちっぷりは見事でしたね。じっくりと眺めたのは、ほんの数試合でしたが、特に準決勝の報徳学園戦と、決勝の東海大相模戦の止めを知らない打棒には恐れ入りました。
 
準決勝は序盤の5点差をはね返しての逆転の勝利、そして決勝の好投手・一二三君を打ち崩しての連打による、1イニングでの7点などはこのチ-ムの持っている底力を見せつけられました。
 
また島袋君も本当によく投げました。春の覇者ですから、その優勝した後からは全国の強豪チ-ムの目標に立ったわけです。この夏の甲子園でも勝ち抜いた6試合は、いずれも強豪と呼ばれるチ−ムばかりでした。
 
そうした対戦校を堂々と退け、文句なしの頂点だと思います。何よりも嬉しいのはこのチ−ム、全国から好選手を寄せ集めたのではなく、地元の選手で固めていることです。それは選手それぞれの名前からしても明らかではないでしょうか。
 
それから監督の我喜屋さんがいいですね。元々大昭和の野球部にいた方で、北海道の白老で長く選手と監督で活躍されていました。やはり大昭和出身の尊敬する先輩とも親しいことから、少し春から注目していた方でもあります。
 
その我喜屋さんについて新聞に次のようなことが載っていました。選抜大会の優勝の翌朝、満開の桜の木の下で選手に語り掛けました。「この桜も、散っちゃうよ」と。
 
それからまた夏に向けて新たに踏み出したわけですが、その花を支えるのは目に見えない根っこ、それを新たに築き上げようということからです。
 
また野球に限らず、約束事を守れ、小さなことでも全力でやれと言い続けてきたそうです。「小さいことを見ようとしない人には、見落としがいっぱいある。小さいことに気づける人は、大きな仕事ができる」と言われています。
 
私たちも学ぶべきことが少なくないのではないでしょうか。また技術面でもさすがと思わせられるのは、興南高は普段の打撃練習からストレ−トや変化球を自由に織り交ぜていることです。
 
ですから次に来るのがカ−ブとかストレ−トだと判っていないわけです。これに対応できない選手は付いていけないとのことですから、自然とレベルが上がるのではないでしょうか。
 
とにかく50年もの長い年月を掛けて沖縄に初めて優勝旗が渡りました。これからは明徳の馬渕監督が言われるように、10年に1回は沖縄から優勝チ−ムが出るのではないでしょうか。興南高の優勝に惜しみない拍手を送りたいと思います。


母校同窓会総会

[2010年08月20日(金曜日)|No.1867]

ちょっと話がさかのぼりますが、8月7日に母校・沼津東高の同窓会総会がありました。本年度は5飛びの回期でその役に当たる、当番幹事回期が私たち学年にも当たっていたことから、事前準備から何かと動かなければいけませんでした。
 
その役目の1つに、記念講演の講師を決めなければいけない仕事がありました。その選定は副代表回期である、私たち学年に任されていたのですが、この人選に当たり、ちょっとこの学校の特色というか、特異な面を期せずして垣間見ることができました。
 
過去のこの同窓会総会における講師は、ほとんどそのOBで占められています。しかし、あまりにもそれに縛られることもないと考え、私たち学年は東高OBではないのですが、この学校に教師として25年もの長い間、務めていただいた恩師にその役をお願いすることになりました。
 
しかしこれが一部の先輩の間では不評なのです。出てくる言葉は「なぜOBではないのに」とか「そんな古い人の話を聞いてどうする、若くて頑張っている人の話の方がよい」など、どちらかと言うと、OBではない人へは排他的なのです。
 
でもいろいろと進めているうちに、その事情も解ってきました。全体的に眺めた建前論というよりは、むしろ個人的な事情があるのです。その先生とは相性が悪くて、個人的にもあまり良好な関係が築かれていないのです。
 
これを知って安心したわけではないのですが、これだけ多い同窓生の中には当然異議を唱える人も出てくるものと、割り切って事に当たることを心がけました。それでもいろいろな人の言葉を通じて、まだグチグチと雑音が聞こえてきましたが、腹を据えて決めたら後は開催準備に向けて一直線です。
 
こうして迎えた当日、さすが我が校に25年もの長い間、関わってくれている恩師は違います。決められた、ほぼ60分もの持ち時間、澱みなく流れるように次から次へと言葉が発しられます。
 
それは懐かしい過ぎしの高原教室や海浜教室、また大瀬にある若人の家の作られた経緯から、卒業生それぞれのエピソ-ド等に至るまで、まるで昨日のことのように話していただいたのです。
 
当初の狙いどおり、この恩師による講演によって、遠き懐かしい青春時代を思い起こせたり、母校への強い郷愁や改めてその良さに気づいた人も少なくなかったでしょうか。
 
それにしても、昭和3年生まれですから御年、82歳になられるのでしょうか。そんなご高齢にもかかわらず、きっちりと組み立てられ、理路整然とした、その構成と語り口には恐れ入りました。それも講師が決まってからの半年間、きっと練りに練って備えて本番を迎えたからでしょう。
 
早速、事後礼状を差し上げたのですが、恐縮するくらいの嬉しい返事をいただきました。しかしながら、大役を終えられてほっとしたのでしょう。手紙には、「連日の猛暑老体辟易、お役目果し得て何か力が抜けてしまったようです」とも書かれていました。
 
くれぐれもご自愛頂きたいと思っています。とにかく、そんなわけで、盛況の内、同窓会総会も無事終わりほっとしながらも、ここに至るまでの関係者の用意周到な準備に、敬意を表し、ただただ感謝しています。


歸國(きこく)

[2010年08月19日(木曜日)|No.1866]

毎日、本当に暑い日が続いています。久しぶりのカキコミとなりますが、いかがお過ごしでしょうか。当方の仕事もお陰様で無事終了いたしました。社員の皆さんの頑張りに本当に頭の下がる思いです。と言っている中、今日も二人がまだ引き続き、出張してもらっているくらいです。
 
さて、お盆で1〜2日間、休みが取れただけですが、終戦記念日に因んだ2つのドラマをテレビで観ました。1つは倉本總さん脚本の「歸國(きこく)」というドラマです。
 
「歸國」は短編小説「サイパンから来た列車」を、倉本さんが脚本化したもので、終戦記念日の8月15日深夜、東京駅のホームに幻の軍用列車が到着、戦争で全滅したはずの兵士の「英霊」たちが降り立ち、夜明けまでの数時間、現代の東京をさまよい歩くというスト−リ−です。
 
このドラマを観て、いろいろ考えさせられることが少なくありませんでした。さすが倉本總さんだなと思わせられたのですが、現代日本のあり方、立ち位置について鋭く指摘しているように思えました。
 
劇中、言い当てている、いくつかのコメントがありましたので紹介します。
 
日本はとても豊かになったが、日本人が幸せになったかどうかはわからない。
 
何を聞いても携帯を打っているだけで無反応、子ども達が歌を忘れてしまった。
 
便利に頼りすぎて体を使い、汗をかくことをしない。
 
人は二度死ぬ。一度目は肉体が死ぬとき、そして二度目は完全に忘れ去られたとき。
 
今の日本には自分が痛いのが怖くて人を殴る奴がいなくなった。人間としての恥を知れ。

 
ドラマの中ではこうした事例をいくつか採り上げていました。それこそ女の身1つで、ダンサ−等いろいろな職業を転々として、身を粉にして働き、息子を育て上げた母親(ドラマの中ではビ−トたけしさんの妹役)の寂しい臨終を迎える姿が描かれていました。
 
婿に入り、仕事での体面にこだわり、こうした苦労をして育ててくれた自身の母親を、最期の看取ることさえせず、人任せにしようとする息子に対し、英霊であるたけしさんは怒りがとても収まらず、終には刺し殺してしまいます。
 
何か現代の人間模様の縮図を描いているようにも思えます。あまりにも自己中心的で、血を分けた肉親でさえ、冷え切った目で眺めている現代を、お国の為にと自己を投げ捨ててまで深く関わった英霊たちとの対比から、鋭く警鐘を鳴らしているような気がします。
 
もう1つのドラマ「15歳の志願兵」は、また別の機会に触れさせていただきます。とにかく、今の日本が果たして全ての面で豊かな国になっているかどうかは別として、こうした先人たちの犠牲があって築かれていることには間違いありません。
 
たとえ、1年に1度でもしっかりと、このことを考えていかなければいけません。翌日の終戦記念日はちょうどソフトボ−ルの試合が組まれていたのですが、その最中、正午の鐘を合図に行われた黙祷には、いつもとは、また違った気持ちで心から祈りを捧げ、深く想いをめぐらせたものです。


苦しい言い訳

[2010年08月06日(金曜日)|No.1865]

カキコミが大変滞っていて誠に申し訳ありません。嬉しい悲鳴には違いないのですが、仕事が忙しくてなかなか、この時間が取れなくなっています。
 
元々、私たちの業種は人々が遊びに繰り出す時期、例えば年末・年始や5月のゴ−ルデンウィ−ク、そしてこのお盆時期が比較的忙しくなるときです。お客様である工場などが長い連休に入り、設備の模様替や増設などの工事がしやすくなるからです。
 
また私たちが関わっている電気についても、お休みの時でないと停電の作業ができません。こうして今年のこの時期も、幸い、あちこち引合いを頂いており、お盆の時期にその切替を行おうとしています。
 
ですから多少納期がなく、きつい仕事になっていても贅沢は言えません。折角、お客様が私たちを信用して、仕事を出して頂いているから、その期待に応えなくてはいけないのです。
 
こうしたことで、この時期は社長業をすっかり放り出して、実業にはまってしまっているのです。社員の皆も本当によくやってくれています。夜遅くまで頑張ってくれているのですが、私はいろいろな他の用事も入ってきて、彼らに付き合えず、早めに会社を出ることも少なくありません。
 
それでも自分の仕事を進めなければいけないため、仕事を朝型に切り替えています。会合などが終わったら、出来る限り家に早く戻って休むように心がけ、朝早く起きて会社に出掛けるのです。
 
この朝型の仕事はすこぶる能率が上がるものです。他の人間との接触や電話もないお陰で、思う存分仕事に打ち込めます。それと年齢のせいか、夜遅くまでの仕事では気力もだんだん失せてきて、集中が長く続かないのです。
 
社長が設計などの実業にしっかりと取り組まないと、会社が回っていかないというのも、どうも威張れたことではなく、問題は少なくありません。でもこれが中小零細企業の実態なのです。
 
それと仕事が忙しくなっていても、無理にでもまたいろいろなものを取り込みたくなります。少しでも暇のときのことを考えているからです。かくしてこのカキコミなどの時間が全くないという訳ではないのですが、気持ちに余裕がなくなってしまうから書けないのです。
 
苦しい言い訳ですね。でも仕事のない苦しさより、こうした忙しくてやりくりができない苦労の方が、ずっと気分的に楽なものです。カキコミは是非続けたいと思いますが、忙しい仕事は少しでも長く続いてもらいたいものです。
 
こんなわけで来週の9日より18日まで、連休工事や振替代休で、申し訳ありませんがカキコミを休ませていただきます。何卒、よろしくお願い申し上げます。


ちょっと良い話part65

[2010年08月04日(水曜日)|No.1864]

こんなお店ばかりだったらよいのにという、ちょっと良い話を紹介します。
 
横浜・野毛の名物居酒屋「武蔵屋」は、看板もない古びたしもた屋。25人も入れば満員の店に、生前の平山郁夫や青木雨彦らも通った。
 
開業以来の決まりは「酒はコップ3杯まで」。でも、店を守る木村喜久代さん(88)の米寿を祝ったこの七夕だけは「今日は3杯までって言いません!」と樽酒を気前よくふるまった。
 
大正時代、横浜港に近い酒屋の一角で喜久代さんの父銀蔵さんが立ち飲みを始めた。関東大震災と戦災を乗り越え、1946年12月に現在の場所で居酒屋を開いた。
 
「周りは何もなく、通りは闇市よ」と喜久代さん。酔っ払いを嫌う銀蔵さんが酒量を管理し、なみなみ注ぐ1杯目で「おからとタマネギ酢漬け」、2杯目で「湯豆腐と納豆」、3杯目で「お新香」というつまみの段取りも開業以来、年中不変だ。
 
安くてうまい酒と、酔った客は平気で追い返す商売気のない頑固オヤジを慕って、船会社の重役や大学教授らが通った。83年に銀蔵さんが亡くなると、喜久代さんが妹の富久子さん(86)と店を続けた。姉妹そろって高齢の今は週3日の営業。「1日でもやってと言われちゃ、閉められません」
 
子や孫を連れた人、妻子を伴った元学生アルバイト、病気をおしてタクシ−で駆けつけた人・・・。祝福に集まった約200人に、喜久代さんは誓った。「武蔵屋はこれからもずっと同じです」

 
変わらない3杯の酒に乾杯」というお話です。いいですね、とってもレトロで、3丁目の夕日ではないのですが、懐かしい良き時代を思い起こすことができます。
 
人々が温かくて、他人の体の心配までしっかりとみてくれています。豊かになり過ぎて、他人のことはお構いなしといった今の時代では貴重なお店です。こういったお店が少しでも残っていてくれれば、疲れも癒され、明日に繋がるというものです。


ドタバタ

[2010年08月03日(火曜日)|No.1863]

8月1日の日曜日は本来なら富士山に登る予定だったのですが、土曜日の夜、母親の緊急入院で急遽取り止めにせざるを得なくなってしまいました。一緒に連れていってもらうはずの友人には、すっかり迷惑をかけてしまいました。
 
この登山を中止しようと言ってくれたのも友人です。既に前の晩から支度も済んでいたことから、朝5時半出発の予定で、友人の家を訪ねていきました。自分としては、前の晩から家内に病院に付き添ってもらっていたものの、すぐに事態が急変することもないと思い、家を出て行ったのです。
 
そして車で出発するや否や、富士山のお天気の話になり、晴れていても今日は早めに帰ってきたいということを私から言い出したのです。予定を組む段階では、晴天なら暗くなるまで待って、満点の今にも落ちてきそうな星屑を眺めて降りて来ようと話し合っていたからです。
 
訳を聞かれたからその旨話をしました。そうしたところ、友人がそれなら止めようと言ってくれたのです。「そうした親の一大事に、もし万が一のことがあったら一生の不覚で、会わせる顔もないよ。富士山はなくなるものでもないし、いつでも行けるから」と諭してくれたのです。
 
こうして、ものの10分も走らないうちに引き返して、病院に向かったのです。前の晩、その看病で一睡もできなかった家内には家に帰ってもらい、交代で私が付き添うことにしました。
 
そして午前中の10時過ぎに、主治医から話があると呼ばれました。出てきた言葉はこちらの予想を上回るほどの悲観的なものでした。肺炎をこじらせて、白血球も少なくなっているから体に抵抗力がないと言うのです。
 
そして更に出てきたのは、ほとんど回復の見込みがないので覚悟をして下さいとの言葉です。今晩が山で、会わせたい人がいるのなら、早めに連絡を取るようにとまで話されるのです。
 
そこまで言われるので、弟や叔母にも連絡をしないわけにはいきませんでした。でも一日付き添っていて感じていたのは、果たして今晩が山だと言われても、正直、半信半疑のところがあったのです。
 
酸素の吸い込む量も足りないとのことでしたが、顔色もそんなに悪くなく、元々心臓なども弱いほうの人ではなかったからです。こうして今何かあっても困るという、こちらの願いが通じているのか、3日目の晩には付き添わなくてもいいと言われるほど、先生の指摘が良い方に外れているのです。
 
しかし、まるっきり安心はできませんが、母親のもっと生きる力に期待をしたいと思っています。それにしても、こうなってみると、近くの市立病院でよかったと、つくづく感じています。いろいろな看護婦や看護士の方々が、とっかえひっかえやって来て、いろいろと世話を焼いてくれるのです。
 
多いときは体温測定や下の世話等で今出ていったかなと思うや、次の方がやってきてまた体の向きを変えてくれ、またまた別の人がやってきて違った仕事をしてくれているのです。まさに至れり尽くせりの看護です。
 
そう言ったら叱られますが、つい先日、別の入院で1ヶ月近く診てもらった病院とは雲泥の差です。それと、こうして行き交う人が何よりも感じがいいですし、一部巷間伝えられているところの赤字病院だからどうのこうのという、評判とは全然異なるものです。
 
やはり、それぞれが変わろうとしている、努力の表われなのでしょうか。気持ちの良いものです。こんな思いがけないドタバタがあり、カキコミが思うようにできず、失礼致しました。中止を勧めてくれた友人には本当に感謝しています。