株式会社 アイソー




2009年02月の日記

人生を潤す言葉

[2009年02月27日(金曜日)|No.1579]

雑誌「致知」に次のように書かれていました。人生に口ずさむ言葉を持て。人間はそれほど強いものではない。苦しいこと、悲しいことに胸ふさがれる日もある。気力が萎える時もある。そういう時、どういう言葉を口ずさんでいるか。それが運命を左右することもある。
 
よい言葉、人生を潤す言葉に触れ、口ずさみ、心に美しい火を燃やし、尊かったと言える人生を歩みたいものである。

 
さて自分にとって、そんな人生を潤す言葉を見つけただろうかと問うと、やはりまだ出会えていないのです。打ちひしがれて落ち込んでいるときでも、何となく勇気が湧き、癒してもらえる言葉です。
 
逆な意味合いから考えると、人生においてまだ一度も大きな窮地には立たされていないから見つかっていないとも言えるかもしれません。
 
日本を代表するホテルである帝国ホテルのトップを務めた藤居寛さんは、15歳のとき列車転覆事故で両親をいっぺんに失くした後、長男として12歳の妹と8歳の弟を抱え、家族を背負っていかなければならなくなった時、もう涙も出ない状況だったと言われます。
 
頭が良かったが小学校しか出ていなかった、亡くなった父から日頃より口癖のように経済をやりたければ一橋に行けと言われ続けていたことから、そんな苦境の中でも大学進学を目指したわけですが、入試当日でも新聞配達をやってから出掛けたとのことです。
 
そのような藤居さんだから、このホテルのブランド力を更に引き上げた手腕を擁していたものと思われます。帝国ホテルでは鼻から部屋に入り、膝で掃除をして目で洗うという言い伝えがあるそうです。
 
客室へ掃除に入る際、鼻に神経を集中し、前のお客のにおいを残さない。またお客はベッドに横たわったり椅子に座って過ごされるから、掃除は膝をついてテーブルの脚やベッドの下までやる。そしてランドリーの洗濯物は外れたボタンがないか、またほつれはないかと目で確認してから洗うとの意味です。
 
またそのサービスの教訓を示す算式「100−1=0」なるものがあるそうです。ホテルではどんなに素晴らしいサービスを施していても、たった1つのミスで全て台無しになってしまうということです。
 
まさに1つマイナスがあれば答えは99ではなく0であるというのです。その厳しいホテル業を支えてくれたのも、お客様との素晴らしい出会いだったと言われています。
 
小才は縁に出会って縁に気づかず、中才は縁に気づいて縁を生かせず、大才は袖振り合う他生の縁も縁とする」という言葉があります。
 
まさにこのご縁を大切に生かせていけば、人生は潤い、益々尊いものになっていくのではないでしょうか。


おくりびと

[2009年02月26日(木曜日)|No.1578]

日本映画「おくりびと」がアカデミ−賞外国語映画賞を受賞しました。同じく短編アニメ賞を獲得した「つみきのいえ」とのダブル受賞快挙に、日本映画界にも久しぶりに明るさが戻ってきているようです。
 
おくりびとに関しては、なんと言っても主演の本木雅弘さんの功績が大きかったように伝えられています。何しろ企画から原作者への交渉など、一手にこの本木さんが引き受けていたのです。
 
きっかけになったのは27歳のときと言うから、16年も前からこの企画をあたためていたのですね。その執念と熱意には、役作りとあわせ、敬服させられてしまいます。
 
27歳の時に友人とインドを訪れたとき、ガンジス川に流れる遺体をいくつも見て、「そばでおばさんが洗濯をして、子どもたちが遊んでいる。死が身近にある日常に衝撃を受けた」と言います。
 
人はみんな死ぬ。でも日常から遠ざけようとしている。死に自然に向き合う死生観に不思議と興味がわきました」と、帰国後に読みあさった関連書の中に「納棺夫日記」という本を見つけたそうです。
 
そして見知らぬ遺体を清めて仏着を着せて棺に納める「納棺師」という職業を知り、直感でこれは映画になると思ったのです。しかしながらその後、この映画化に向けての原作者への交渉にも、いくつかの高いハ−ドルが待ち構えていました。
 
一旦は了承を取り付けたものの、シナリオを読んでもらった途端、原作の意図するところと違うからお断りしたいとの指摘を受けたのです。
 
そして直々に原作者のところに駆けつけ、自身の熱い思いを告げ、ようやく「納棺夫日記」という名前は使用しない条件で許可を取り付けたのです。このときの会食には富山のおいしい魚などがいっぱい並べられていたそうですが、思いを何とか伝えようと、1時間以上箸は全くつけなかったとのことです。
 
それから納棺師という役作りにも、実際に変装してその現場にもスタッフに一人として挑んだり、何度も何度もその所作を繰り返したりして、精一杯励んでいたそうです。
 
まさにこうした役者としての執念が、最後には大きく実を結んだということになるわけです。人として生まれてきた以上、死は永遠の深いテ−マです。私も小さな頃から、この実在している自分自身の、いつかは必ず訪れる肉体の喪失に、言い知れぬ恐怖感を覚えていたものです。
 
この受賞が予期せぬサプライズとも伝えられています。しかし、人間として必ず迎えなければいけないこの死に対して、古来からの荘厳な儀式を通して、日本人の心と文化が伝えられたのではないでしょうか。またそれは今の時代だからこそ、人々の胸を打つものがあったのではないかと思っています。


明暗を分けた帰国

[2009年02月25日(水曜日)|No.1577]

先週の19日に王・徐の両君が中国に帰国してから早、1週間が過ぎ去ろうとしています。無事、本国に帰ったわけですが、二人が抜けた会社はやはり寂しいものです。
 
今でもしっかりと脳裏に焼きついているのですが、中部国際空港へと彼らを見送りに行ったとき、最後の出発搭乗ゲ−トを潜る徐くんの目の周りが真っ赤だったことが忘れられません。
 
二人に「できる限り、こちらに早く呼び寄せるから、体に気をつけるように」と言って、堅い握手をして別れた後、感極まるものがお互いの中にあったからでしょう。
 
これも3年の歳月が為せる業なのでしょうか。彼の目に光るものが見えたとき、「ああ、やっぱり、こいつらは本当にいいやつなんだ」と実感したものです。
 
たかが3年の期間かもしれませんが、やはり双方にとっても、貴重な思い出作りができたのではないでしょうか。そして彼らにとっても、我が社の対応が十分満足のいくものであったのではないかと、手前味噌ながら確信したものです。
 
ちょうどこの帰国日の翌日、磐田への出張作業を控えていた弊社社員3名も、前日入りして宿泊しなければいけない関係から、ついでに見送りのメンバ−に加わることになりました。
 
ですから会社からは私も含め、4名での彼らへの見送りとなったわけですが、この中に1名、研修生として唯一会社に残った劉君も含まれていました。
 
その劉君が空港で、他の会社から同じように研修を終え、中国に帰るメンバ−の一人を見つけて、「社長、あの人は来日時、岐阜の日本語研修所で一緒だった人です。」と言うのです。
 
日本に来てすぐ、3週間ほど研修を過ごすわけですが、そのときの同期の仲間だと言うのです。ということは、劉君は来月の24日が来て、満1年を迎えるわけですから、見つけた彼は1年も経たないうちに帰ってしまうのです。
 
関係者に聞くと、企業の業績が悪くなったからこれ以上は雇えないということで、企業側の一方的な都合で途中契約解除になったとのことです。
 
研修生にとっても、日本に来るのにはそれなりのリスクや、高い保証金を払って出てきていることも知っていることから、あまりにも酷い仕打ちのように思えます。案の定、空港で見つけた彼の顔からは、数時間はいたように思えますが、一切笑顔を覗くことができませんでした。
 
忙しいから猫の手も借りたいと言って彼らを呼びつけておいて、暇になったからという自社の都合だけで、勝手に契約を解除してしまう、このような会社が今、少なくないということです。
 
果たしてこんなことでいいのでしょうか。無事3年を勤め上げ、晴れ晴れとして帰国の途に着く、弊社の二人の表情に比べて、あまりにもその違いが如実だっただけに複雑な思いに駆られました。
 
併せて、弊社だけは彼らの信頼を絶対裏切ってはいけないと、去り行く彼らの後姿に固く誓ったものです。



WBCに向けて

[2009年02月24日(火曜日)|No.1576]

いよいよ3月5日からWBC第1次ラウンドのアジア予選が始まります。これに向け、宮崎で合宿を張ったメンバ−は巨人との2試合の練習試合を経て、今日はオ−ストラリアと強化試合が行われます。
 
今日先発を予定されている、ダルビッシュをはじめとした投手陣は比較的好調との報道が伝えられていますが、果たして本番に向けどうでしょうか。WBC連覇に向けその鍵を握る投手陣だけに、一層の奮闘が期待されるものです。
 
ところで先日、この本番に向けて代表の最終登録選手が発表されました。元々選んだ33人のうち、最終登録できる28人を選び出すのです。
 
この結果、投手では和田、岸の両投手の他、細川捕手、松中・栗原選手が最終登録に残れず、あえなく落選の憂き目を見てしまいました。
 
しかしこのやり方はどうでしょうか。多少守備に不安が残るものですが、松中選手など前回も代表として活躍選手だけに落としにくかったものと思われます。
 
言いたいのは誰がこの落選候補になろうと、こうした最後にふるい落とすといったやり方が少し考え物ではないかということです。
 
仮にも最初に選ばれた選手はアマチュアではなく、れっきとしたプロ選手です。それだけに果たしてそのプライドが許されるものでしょうか。
 
私はそうしたものではなく、最初からしっかりと28人を選んでおいて、巨人の亀井選手など、原監督が自由に指図できる選手を補用として入れておいた方が、ずっとスマ−トだったように思っています。
 
言いたくはないのですが、サムライニッポンなどと銘打っていますが、果たして選手の持つ潜在能力以外のプラスアルファ−の部分を原監督が引き出すことができるのでしょうか。今回の最終人選1つとってみても、少し不安に感じたものです。
 
第1回大会では、何と言っても世界の王と呼ばれた大選手でもある王監督が指揮をとってくれました。それだけにこの監督のためにもといった、選手それぞれに秘める、少なくないものがあったように思えます。
 
正直言って、そこまでの無言の説得力は原監督にはありません。それだけに、ただその監督の座に居座っているだけではなく、自分から動き回って選手にその気を持たせることが必要です。
 
それには一番の鍵を握るイチロ−選手をはじめとして、コ−チにただ任せておくだけでなく、監督自ら動き回り、優しい配慮を示しその気にさせることです。また極端に言えば、これだけの選手を集めたメンバ−だけに、監督のやることはそれしかないように思えるものです。


もったいない その6

[2009年02月23日(月曜日)|No.1575]

セブンイレブンが独禁法違反の疑いで調査されました。売れ残った弁当やサンドイッチの廃棄を避けるため、お店側が安売りで見切り販売をしたいのですが、それをどうやら不当に制限しているのではないかという容疑からです。
 
そう言えば西友など大手ス−パ−では、消費期限が迫っている食品などは値段を下げて販売しているのですが、このセブンイレブンに限らずコンビニチェ−ンでは見当たりません。ほとんどが定価販売で値を下げるということがないのです。
 
まさにフランチャイズの本部の意向が強く働いているように思えるものなのです。聞くと、この本部と加盟店との間では、土地や建物を加盟店側が用意して営業している場合、売上総利益の43%をセブンイレブンチャ−ジとして、本部に支払う仕組みとなっているそうです。
 
また、このコンビニ業界のFC契約は、廃棄した商品の原価を売上総利益に含める方式を採用しているのです。ですからこの廃棄した商品が増えれば、それだけ加盟店側は廃棄分の原価負担に加え、チャ−ジ分も上乗せとなり不利益が大きくなるのです。
 
これって少しおかしいのではないでしょうか。供給側の本部にとっては配送した商品は全てリスクもなく、捨てられようと何しようと金銭的には保障されているのです。一方、店側にとっては廃棄するとそれだけ利益を圧縮することになり、何とか安売りしてでもせめて原価獲得に努めたくなるものです。
 
でもそれも認められないのでは「加盟店いじめ」と言われても仕方がないのではないでしょうか。
 
それと何よりも、消費期限が過ぎた途端、大量な商品が捨てられてしまうのです。安売りでも何でもして人々の口に入ればまだしも、そんな努力もなしにただ捨てられてもよいものなのでしょうか。
 
こんな「もったいない話」はありません。日本の食糧自給率が今、39%と言われている現状で、こんな無駄が許されるものでしょうか。地球上の裏側では、この一粒のお米すら口に入らない人々が存在するというのにです。とても許されることではありません。
 
一方ではこれでコンビニ本部の業績悪化とか、加盟店とも共倒れなどの懸念も伝えられています。ですが、大手百貨店の売上を抜き去り、飛躍的な業績向上を伝えられている現在のコンビニだけに、敢えて苦言を呈し、深く再考を求めたいものです。
 


熊本・中小企業問題全国研究集会から

[2009年02月20日(金曜日)|No.1574]

熊本での中小企業問題全国研究集会の報告です。「火の国で、滾(たぎ)る想いに華咲かせ、光れ!輝け!中小企業」何とまあ、凄いタイトルを考えたものです。挨拶でも出ていましたが、私も滾るなんて漢字はとても読めませんでした。
 
でもこうした周囲がとても厳しいときだからこそ、ここまで来て学ぼうとしている人たちの想いは半端ではないもので、強烈な刺激をいただくことができました。
 
私が選んだ分科会は第五分科会で、国内市場が縮小する中での世界戦略と題した、おしぼり蒸し器や全自動酒燗器等メ−カ−の社長のお話で、お客様のニ−ズに合う商品を積極開発すれば自社の製品は海外でも通用するという強い信念から、5年前より世界マ−ケットへの事業展開を積極果敢に図っている報告でした。
 
その経営基本方針は次の7つです。①ニッチ市場に特化 ②ニッチ市場でトップシェア ③小型商品に特化 ④スピ−ド経営 ⑤自社ブランドの確立 ⑥ホスピタリティ− ⑦利潤を上げ公正に分配
 
報告の端々に見られたのは、日本のおもてなしの文化やシステムへの見直しです。私たちは何気なくおしぼりなどを使用していますが、外国人にとってはそうした気遣いが今までの習慣にはなく、その機会に触れると今、とても喜ばれていることです。
 
日本独特のおもてなしの心の輸出です。また報告の最後に触れていた、他人の利益を考えれば最後には自分にも返ってくるという、自利利他の心がとても印象的で、ブランドにも繋がると話されていました。ですから社員を積極的に海外研修にも出されているとのことです。
 
またこれを受けて8人ぐらいの小グル−プに分かれ、決められたテ−マに沿って話し合うバズセッションという、同友会独特の学習手法に移りました。テ−マは「市場の現状から今取り組む自社の戦略と課題は?」です。
 
ここで1つ紹介させていただきたいのですが、グル−プメンバ−に地元・熊本の美少年酒造の副社長が加わっていました。ご存知の方もいることと思われますが、昨年秋に起こった事故米混入で騒がれた会社です。
 
この会社の実質経営責任者である33歳の副社長の話には引き付けられるものがありました。事故が起こった後、売上げは1/10から1/20に下がっていったと言います。聞くと、事故米と知っていての仕入れではなく、その価格もそれ以前と少しも変わるものではなかったとのことです。
 
いわばこの会社も被害者みたいなものですが、世間はそんなに甘いものではありません。ですから社内的に早急にその管理体制を見直し、整備したのです。そしてその直後である、昨年の12月になってからこの同友会に入会したと言うのです。
 
こうした前向きな姿勢にとても共感したものです。そして現在では売上げもやっと半分まで回復しているとのことです。思わず、静岡に帰ってからも、美少年というお酒を皆さんによく宣伝しておくからと、応援したくなったものです。
 
このように業種は違っても、経営者が様々な経営課題を発表し合い、またそれを会員それぞれが自社の問題として捉え、熱い討論から自社に活かしていくという、同友会独特の手法なのですが、全国では更にその学びが深まることになります。まさに会員そのものが辞書の1ペ−ジなのです。
 
この頂いてきた大きな刺激と学びを早速、自社の指針に反映させ、これからの仕事に活かしていかなければと強く思いました。学びを実践に、またそれでなくては折角のかけがいのない学びが無駄になってしまいます。


田中角栄さん

[2009年02月18日(水曜日)|No.1573]

とうとう財務相が辞任ですか。まあ、仕方がないですね、国際的な記者会見であれだけの醜態を見せたのですから。それにしても、近年、我が国の政治家があまりにも小粒になってきたような気がしています。
 
そこで思い出されるのが田中角栄さんです。過日、ある新聞にも改めて取り上げられていましたが、今の時代にこの角さんが生きていたのなら、どんな手を打っているだろうかと。
 
もう少し素早い手を打っていることと思われます。何しろ100年に一度という、この未曾有の不景気ですから、ぐずぐずしていては政治家の沽券にかかわると、あの必死な形相が目に浮かびそうです。
 
ですから、内閣の一員だったから賛成はしたが、個人的には反対だったとの、そんな女々しい言い逃れなどは絶対に口が避けても言わなかったはずです。
 
一説によると、この田中角栄という政治家はやはり並みの政治家ではなく、人間関係においてもいろいろと配慮が行き届いていたと言われています。
 
まず叱り上手で、選挙が近づくと若手にしばしば気合を入れていたと言います。そんなことでは甘い、一からやり直せと言われた若手が、何とか当選を果たし、怖々挨拶に訪れると、破顔一笑、相手の手を握って、「俺の見込んだ男だけのことはある、これで将来は大臣間違いなしや」と褒め称えたそうです。
 
いわゆる、明るく叱ってフォロ-を怠らなかったというのです。また一つのことをやり遂げようとするときの情熱は、人並み外れていたことが紹介されています。
 
かつて幹事長時代、「創価学会を斬る」という政治評論家・藤原弘達氏の著書が出回るとき、創価学会からの依頼もあり、その調停に乗り出し、弘達氏とさしで話し合ったとき、ここまで述べたとその実話が紹介されています。
 
よしわかった。それでは、こういうことではどうか。ここで田中角栄の願いを聞いてくれるなら、それを自分の一生の恩義とする。そしてこれからの生涯、何時、何でもいいから、田中にしてもらいたいということが出てきたら、そのとき何でも言ってくれ。それが何であれ、自分はその望みをかなえるために全力をつくし、必ずそれを実現してやることを誓う
 
結果的にはその願いは聞き入れられなかったのですが、そのときの迫力は物凄いものがあったと言われています。少しでも世俗的欲望がある人間だと、たちまちの内に見抜かれコロリといくものがあったとのことです。
 
交渉は失敗しても、このことにより創価学会の池田会長とも、電話一本でいつでも話せる気の置けない間柄になったそうです。転んでもただ起きず、他を圧するその存在感はそんなところから築いていったのではないでしょうか。
 
とにかく、この角栄さんのような大モノ政治家の出現が待たれるところです。あまりにも現在の政治家との器の違いを感じさせられたので、少し触れさせていただきました。
 
昨日触れましたように、明日19日は弊社実習生、王君と徐君が中国に帰国します。彼らを中部国際空港に送っていくため、早朝より会社を留守にしますので、カキコミは休ませていただきます。


実習生の帰国

[2009年02月17日(火曜日)|No.1572]

いよいよ弊社実習生の二人が3年間の研修期間を終え、明後日の19日、母国・中国へ一旦帰国することになります。今日の夜は彼らの慰労も兼ねた送別会です。
 
一旦帰国というのは、前にもお知らせしたとおり、弊社は手が足りなくて彼らを一時的に雇用するという形ではなく、将来的にその戦力として買っているからです。
 
中国では高卒以下の方ですと、国内制度で一生に1回しか、この海外派遣という研修制度が認められていません。ですから折角培かわれた技術等でも、自国では活かされても、我が国で引き続きそれを活かして再雇用ということができないのです。
 
これでは私たちの会社のように、一時的な忙しさを凌ぐのではなく、技術を活かしていくような業種ではつまらないのです。これを防ぐ唯一の方法として、彼らのように中国での大卒以上の肩書きを持った人間を研修生として受け入れたのです。
 
そう言ったら語弊があるかもしれませんが、現在研修生を受け入れている日本の企業の多くは、コストの削減だけを考えた雇用を彼らに求めているのではないでしょうか。
 
そのため、現在のようにちょっと不況になったからと言って、3年間の契約期間満了を待たずして、自社の勝手な都合で彼らを契約打ち切りにしているという話も少なくないようです。
 
雇用企業の中には、定められた最低賃金とか残業料まで不法にカットした、ずさんな就労形態も見られます。さんざん安く使っておいて、仕事がなくなったからと言って契約打ち切りとは、あまりにも身勝手ではないでしょうか。
 
聞くと日本に出て来るためには、彼らにとっては決して少なくない保証金を預けているとのことです。また自国でのその捻出にはそれなりの苦労もあるようです。そうしたことを聞いているだけに、自分勝手な日本の受け入れ企業には強い憤りすら覚えるものです。
 
しかし弊社にとっては、彼らの3年間の研修・実習期間を眺めてきただけでも、こうしたコストではなく、将来に向けた大きな財産になるものと確信しています。
 
またハングリ−な彼らからは私たちの忘れていたものも思い起こさせていただきました。ちょうどここで一時帰国となる現況は少し悪化しているかもしれませんが、できる限り早期に改善し、彼らの力をどうしても必要とする状況に戻さなければなりません。
 
やはり、同友会でもいつも言っているとおりの人間尊重の経営です。全国大会でも会長が言われていました。私たち中小企業には地域に根ざした小さな雇用を多く増やしていく使命があるとのことです。
 
またその雇用には目の色の違いとか、国籍は問われるものではなく、企業が進んでいく上で社員さんは経営者のパ−トナ−です。彼らの力を駆使して新たな夢に近づくためにも、できる限り早く呼び寄せなければと、強い使命を覚えているものです。


生きた証言

[2009年02月16日(月曜日)|No.1571]

熊本の全国大会に行ってまいりました。毎度のことながら、この全国大会に出かけるたびに本当に行ってよかったと、強い勇気と熱い感動を持ち帰ることができます。
 
また学んできたことの一部は改めて紹介しますが、二日目の全体会で、蒲島熊本県知事挨拶の一部が強く印象に残りましたので、ここではその言葉だけ紹介しておきます。
 

大逆境とも言える今日の情勢だが、逆境にこそ夢があり、乗り切ってこそ大きな喜びがある。大切なのは夢に向かって一歩踏み出すことである。今回、1175人もの会員参加を擁した、中小企業問題全国研究集会ならではの、聴けた尊い言葉のような気がしました。
 
2日目のお昼で全体会が終了した後、沼津支部から出かけた私たち一行6人は、次期支部長を引き受けていただける方の実家がある長崎に向かいました。
 
この方は昨年父を亡くし、お母さんがお一人で長崎に住まわれていることもあり、熊本まで行ったのだからついでに、帰りは長崎経由で帰ってこようと取り決めていたのです。
 
長崎に着き、お線香だけでもあげようと、私たちは実家に立ち寄らせていただきました。実家のお母さんは昔気質の丁寧な方で、温かく私たちを迎え入れてくれました。
 
お茶を飲んだ後、何気ない四方山話をしているうち、長崎ということもあって原爆の話にちょっと触れました。そうしたところ、このお母さんが「私も原爆を体験したのですよ」と話し始めてくれたのです。
 
一緒にその場で働いていた3人の娘さんのうち、真ん中にいた自分だけが助かったということ、またやっと建物の2階から逃げ出し、助かったが背中から片腕にかけて大きな火傷を負っていたこと、そしてほうほうの体で防空壕に逃げ込んだあと、捕虜の兵隊に助けられたこと等々、お聴きする話は生まれて初めての、被爆者からの証言ですから、とても生々しいものでした。
 
特には原爆が落ちた後でも、逃げ惑う自分たちに対し、更に追い討ちをかけるように敵の飛行機から機銃掃射が続いたということは、初めて知らさせることでもありました。
 
アメリカは原爆の性能や効果を確かめるためと聞いていましたが、それでは話が違います。一瞬にして虫けらのようになった人々の中で、辛うじて動いている人にまでとどめを刺したのです。まさにこれが醜い戦争の現実であることを知らされたのです。
 
ほんの数分の話でしたが、お母さんの話は途切れず、私たちが時間を気にしなければもっともっと続いていたのではないかと思われます。
 
今でも、このお母さんの原爆への語りが強烈な印象として残っています。私たちはこうした体験もないことから、今日まで何一つ、苦労もなく生きてきていますが、先人のこうしたご苦労や尊い教えを絶対、風化させてはいけないと、強く思い知らされました。
 
そして、人類の平和を願いながら、ずっと後世まで伝え続けていく責任が私たちにあるのではないでしょうか。


ちょっと良い話part44

[2009年02月10日(火曜日)|No.1570]

あのゴ-ンさんが就任当時「都市対抗野球こそが日本の企業文化の象徴である」と言って、当時、存廃を問われていた野球部を存続させた日産自動車の野球部も、とうとう休部に追い込まれてしまいました。
 
どうやらゴ−ン神話も崩壊したようで、日産は正社員4000人を含む2万人もの人員削減を発表しました。今までの内部留保は何だったのか、またそんなに簡単に人の首を切ってもよいのか、大企業の冷酷な仕打ちにとてもやりきれないものを感じています。
 
さて、暗い話題ばかりが続きますので、ラジオで聞きつけたちょっと良い話を紹介します。ネパ-ルに靴を送った福知山高校の話です。
 
ネパ-ルという国をご存知ですか。北を中国チベット自治区に、それ以外の三方をインドに接する内陸国で、世界でも指折りの貧しい国とも言われています。
 
そんな立地条件から寒さも厳しく、氷点下以下にも気温が達するのですが、その中を裸足で歩く人が少なくないとのことです。
 
このことを聞きつけた京都府立福知山高校の教職員が呼びかけ、今まで廃棄処分となっていた体育館シュ−ズを学校全体として集め、ネパ-ルの子どもたちに送ることになったのです。
 
同校では毎年、春先に卒業生の不要となる体育館シュ−ズが多数捨てられていました。しかしネパ−ルのことを知り、この有効活用にと考え、2000年からこの活動を始め出したのです。
 
そして昨年もこの運動靴を中心として、近隣の小学校や企業の協力もあって、文房具やジャ−ジ−など約60kgの荷物を届けたとのことです。それも自分たちの手で直接渡したいとの強い思いもあって、関係者4人が険しい山道を越えて現地入りしたのです。
 
このように私たちが何気なく廃棄している物でも、現地の子どもたちにとっては宝もののように扱われ、大事にされるのです。豊かさにあぐらをかいてはいけません。
 
今一度、無駄のないよう周囲を見渡さなければならないときかもしれません。そして何よりも福知山高の皆さんが気づいたように、思いやりのある優しい気持ちを持たなければと教えられました。
 
2月12日より中小企業家同友会全国行事である、中小企業問題全国研究集会が熊本で開かれ、沼津支部5人の仲間と共に参加してきます。このため14日まで会社を留守にしますので、カキコミは休ませていただきます。ご容赦下さい。


かんぽの宿

[2009年02月09日(月曜日)|No.1569]

この7日、8日の2日間は中小企業家同友会・県経営指針を創る会の最終発表会で、焼津まで出掛けてきました。スタッフの一人として参加してきたわけですが、この会も今回は第5期ということで、こうした厳しい時節柄にもかかわらず(というかこうした時期だからこそですが)、参加した会員の意識とレベルの高さを痛感いたしました。
 
この内容はまた別の機会に触れたいと思いますが、開かれた場所が焼津かんぽです。社長が同友会会員の関係で何かと便宜を図ってくれることから、ここで開かれることが多いのですが、そう、今いろいろと騒がれている、かんぽの宿なのです。
 
この焼津かんぽはロケ−ションも良く、私たちが出掛ける度に多くのお客さんが入っていることから、特段何も問題ないことと思われるのですが、採り上げられているかんぽの宿全体の問題にはちょっと首を傾げてしまいます。
 
何しろ売却対象となった、70のかんぽの宿と一部の社宅の取得価格は約2400億円とも言われています。それが昨年の暮れまでに行われた競争入札では、109億円で落札されたと言うのです。
 
その価格の中には赤字の場所も含めた、従業員の雇用維持も含んでいるとは言いますが、あまりにも安すぎるということです。70のかんぽのうち、黒字の所が11箇所しかなく、全体としては年間約40億円の赤字が出ているということなのですが、それにしてもおかしな取得金額なのです。
 
それからもう1つ、この落札者がオリックス不動産だと言われるのです。ご存知のとおり、この施設の民間への売却は先の郵政民営化の中で決められたことであるのですが、この民営化を進めた改革会議の議長はオリックスの会長である宮内義彦さんだったのです。
 
これでは郵政担当の鳩山総務大臣でなくても異議を唱えたくなるものです。「李下に冠をたださず」という言葉があります。李(すもも)の木の下で冠(かんむり)を直すと、李の実を盗んでいるように疑われるというところからきた、ことわざです。
 
まさに我田引水のようにも思われることなので、その元議長としてしっかりと襟を正してもらいたいものです。
 
私たちが行った焼津かんぽは、きっと健全経営で11の黒字の中の1つであると確信していますが、山の上に位置することから眺望が開かれていて、眼下には焼津の港を美しく見下ろすことができます。こんな素晴らしい場所を安売りすることは断じて許されることではありません。


頼りない日本の政治家

[2009年02月06日(金曜日)|No.1568]

相変わらず我が国の首相のブレが目立ちます。ここに来て郵政民営化にまで、「当時内閣の一員だったが自分個人としては賛成ではなかった」かのような発言を言い出す始末です。
 
まあ、とんでもない、かんぽの宿売却問題等がありますが、時の総理が同じ政党で推し進めた郵政民営化について、今更述べるにはちょっとおかしな筋合いではないかと考えます。
 
まるでちょっと行き詰ったら自分の責任ではなく、全て他人のせいだと押し付けているようなものです。それが一般人ならともかくとして、この国の政治を取り仕切るトップの立場なのです。
 
先の納税問題により辞退に追い込まれたアメリカ厚生長官の指名について、きっぱりと自分の大きな失敗であり、全てその責任は私にありと謝罪したオバマさんとはえらい違いです。
 
やはり全てが苦労知らずのお坊ちゃまの為す仕業のようで、人間の質の違いを大きく感じています。あまりこれ以上触れると余計腹が立つのでやめときますが、先日ちょっと新聞に採り上げられた政府紙幣の発行について考えてみました。
 
あまり良い策ではないような気がしますが、私はやるのでしたら、この政府紙幣の発行を次のようにしたら面白いかなと思います。
 
まずこの限定付で発行した政府紙幣券を日本銀行券(通常の紙幣)で買ってもらうのです。ただ、お互いが同等の価格では、とてもそんな余分な金を出して買ってくれるような人はいないでしょうから、政府紙幣券を買えばお買い得のような価格にするのです。
 
たとえば5000円のお金で10000円の政府紙幣券を買えるようにするのです。そしてこの紙幣券は期間限定で、例えば3年ぐらいの間でしか使えないこととして、全て商品やサ-ビスの対価としてのみ使えることとするのです。
 
そして日本銀行券への払い戻しはできないものとすれば、その間はモノは少し動き出し、多少の景気浮揚にはなるのではないでしょうか。
 
このように少しは真剣に私たち庶民の生活を考えているのでしょうか。私には政治家が高い金をもらいながら、人事のようにただおざなりで政治を進めているようにしか思えません。
 
先日もテレビで少し触れていましたが、現在派遣切りと言って問題になっている派遣制度も、元々は簡単に契約打ち切りで仕事と住居を一挙に失い、路頭に迷うような登録型(一般派遣)ではなく、雇い止めにはならない常用雇用型(特定派遣)しか認められていなかったと言います。
 
それがいつの間にか、知らない間にその制度に盛り込まれたとも言われています。それもごく一部の官僚と学者の手により進められたというのです。
 
このように頼りない政治家は私たちにとって、とても世の中を大きく動かしてくれるようには思えません。やはり私たちの未来は政治などを頼りにするのではなく、自分たちでしっかりと切り開いていかなければならないものと覚悟しています。


守備側の人

[2009年02月05日(木曜日)|No.1567]

昨日は秦野のお客様から見積のお引き合いがあり、早朝から出掛けたのですが、打合せを兼ねた現場調査が夜までかかってしまいました。そんなわけでカキコミができませんでしたので、どうぞご容赦下さい。
 
新聞の投書欄に、15歳の少年から以下のような内容で指摘がありました。なるほどと、こちらも思わせられたのでちょっと紹介したいと思います。サッカ-の守備の選手にもう少し温かい記事を書いてくれとの内容です。
 
A選手2得点、こんな見出しで新聞記事が始まる。確かにプロの試合や国際試合で2得点はすごい。しかし考えてみてほしい。その試合が2対0で勝った場合はいいが、引き分けや負けの場合はその2得点というのはあまり大きく報道されない。
 
これはどういうことか。つまり守備によって報道が変わるのである。言い換えれば守備のプレ−ヤ−の頑張りによって報道が変わる。
 
言いたいのは点を取った選手だけがすごいわけではないということである。サッカ−の試合はいくら点を取ったって、それ以上に点を与えたら負けてしまう。
 
惜しいシュ−トより、相手のシュ−トを体を投げ出して、痛い思いをしながらもゴ-ルを防いだ守備の方が価値が高いと僕は考える。だから得点したプレ−ヤ−ばかりでなく、必死になってゴ-ルを防いだ守備のプレ−ヤ−のファインプレ−を書いてもらいたい。

 
昨日もフィンランド戦があり、日本が5−1と快勝しました。この記事を読んでも、確かに得点した記事しか載っていませんでした。試合内容にもよりけりですが、サッカ−についてはどうやらその傾向が強いようです。
 
これに比べ、野球などは・・投手のふんばりとか、ピンチを救った華麗な守備など、新聞の見出しに載ることも少なくありません。言ってみれば、それだけサッカ-の場合はプロの専門的な目が、記者を含む一般の人にまで養われていないと言えるかもしれません。
 
でもこの少年の言われるように、縁の下の力持ち的存在の守備の選手にも、公平に是非スポットを当ててもらいたいものです。そう言われれば昔、遊びのサッカ-に興じていたとき、全員が自分が点を取ろうと一生懸命動いていたことを思い出しました。
 
点を取るのは確かに格好よいのですが、華やかな存在の陰で、地味でもひたすら守り抜いている人の方がずっと価値ある重い存在のような気がします。
 
これはいろいろな面でも、ある種共通していることではないでしょうか。目立たなくても世の中を支えてくれている人の存在を忘れてはいけません。


人生は夢また夢

[2009年02月03日(火曜日)|No.1566]

少し話題が古くなってしまいましたが、巨人、パイレ−ツと投手で活躍した桑田真澄さんが早大大学院スポ−ツ科学研究科に合格しました。いわゆる大学院生になるのです。
 
ご存知のとおり、桑田さんは巨人でエ-スとして活躍した後、2006年に戦力外を通告され、アメリカに渡ってマイナ−生活を経て、メジャ−のマウンドを踏むという永年の夢を果たしました。
 
そして昨年3月にきっぱりとこの現役生活に別れを告げ、今にして思うと、このもう1つの夢を実現するために目指していたのです。
 
それで思い出されるのが、あの清原選手の涙です。PL学園当時、甲子園を沸かせたこの二人の選手の進路は人々の注目の的でした。
 
ドラフト事前には桑田投手が早大進学と伝えられ、巨人が清原選手指名かと騒がれていました。ところが蓋を開けてびっくり、巨人軍が何と桑田投手を指名してしまったのです。
 
その後20年以上の歳月を経て、それぞれの道で活躍して今日があるわけですが、桑田投手が早大に進学するというのは満更嘘ではなかったのですね。
 
伝えるところによると、30歳になるまでは監督になるのが自身の最終目標だったと言われています。プロの世界で経験を積むうち、視野を広げると目標が変わってきて、中は知っているから外側からしっかり勉強したいと思うようになってきたそうです。
 
そしてこの大学院での1年間の修士課程でスポ−ツ経営を学び、野球界に恩返しをするという未来図を描いているのです。
 
うるさい外野からはなぜ高卒で大学院生になれるのかとか、元プロ野球選手だからその名前で入学したに過ぎないなんて、好き勝手なことが聞かれます。
 
でもやはり入るのにはそれなりの苦労や努力があったものと思われます。入試面接では高度に専門的な質問が出て、受け答えがしどろもどろになって自信がなかったとも伝えられています。
 
ですから本人の言われる「レフトフライが、風が吹いてホームランになった」という絶妙なコメントが飛び出したのでしょう。
 
私たちが知らないPL学園当時は厳しい練習を繰り返す中、授業中は一度も居眠りをしたことがなかったとも言われています。やはり努力の人なのですね。ですから体は小さくてもビッグな投手になれたのでしょう。桑田さんの大学院でのまた素敵な夢が叶うことを願っています。


ホワイトハウスの様変わり

[2009年02月02日(月曜日)|No.1565]

近隣の町、御殿場市では県で最年少の37歳の市長が誕生しました。67歳の現職を破っての勝利だったのですが、これも旧態依然とした今までの市政ではなく、Change(変革)を求めた市民の強い声だったのでしょうか。
 
Changeと言ったら、やはりこの人、オバマさんの話題です。その就任演説で、約60年前には街のレストランに行っても相手にされず食事することもできなかった、父の息子である私が今こうしてこの国の大統領に就こうとしていると、この国の懐の深さを感じさせた素晴らしいスピ−チでしたが、今まさに全世界中がその手腕に注目しています。
 
早速、精力的に動き出しているようですが、オバマ流がじわり浸透してきて、執務を行うホワイトハウスでもブッシュ氏のときと、だいぶ様相が変わってきているようです。
 
まず第1は上着を抜いた姿で仕事をする人が増えてきたということです。その理由の1つとしては、ハワイ生まれのオバマ氏が暖かいのを好むため暖房の温度を上げたからとも言われていますが、以前のブッシュ氏が公務中一切上着を脱がなかったのに比べ、その時代が終わったことを物語っているようです。
 
また執務が以前の朝型から夜型に変わってきているとのことです。早寝早起きで知られたブッシュ氏は早朝からの仕事を好み、遅くとも7時には仕事に取り掛かっていたそうです。
 
それがオバマ大統領になってからは、執務室に入るのが9時とかなり遅くなっています。しかし起床が遅いというわけでもなく、早朝からジムで一汗流したり、家族との朝食などの時間を大切にしているからと言われます。
 
また夕食も家族と共にとるのが貴重な安らぎの時間となっているようです。でもそれで終わりということではなく、いわゆる夜型人間で夕食後も仕事に戻ることが多く、夜10時過ぎても執務室で資料を読む姿を見かけるとのことです。
 
また会議の時間には厳しかったブッシュ氏とは異なり、予定の時間を超えることもしばしばで、ここにも実務型の側面が垣間見られるそうです。
 
ただホワイトハウスがまだ物珍しいのか、館内をうろつくこともあり、突然の大統領訪問で足を机の上に投げ出しくつろいでいた報道官が、慌てて起立したというエピソ-ドも聞かれます。
 
残る課題はブッシュ氏に見られた、あの投げつけられた靴を何気なくかわした軽いフットワ-クと、ジョ−クのキレの良さでしょうか。とにかく世界中の人々がまた違ったアメリカの誕生を願って、このオバマ大統領の手腕に期待しています。
 
そして付け加えれば、是非一度その大統領自身の足で、原爆投下の地、我が国の広島と長崎を踏みしめていただきたいと願っています。