会長の”三行日記”

2016.09.20

黒田官兵衛その2 No.2895

 以前にも取り上げたことのある人ですが、竹中半兵衛とならび豊臣秀吉の軍師としてその辣腕をふるった人物に黒田官兵衛がいます。この黒田官兵衛のあふれる才能に畏怖した為、秀吉も家康も彼を冷遇したという話です。

元々、この人は毛利家や四国の三好家などに囲まれた中国地方出身なのですが、これからは織田家の時代と早々に見切りをつけ、小寺家の家老職ながら秀吉に恭順し厚遇されることになります。

でも反旗を翻した荒木村重に捕われ、土牢に長い間閉じ込められた関係でそれ以後、足を引きずる生活を余儀なくされます。その黒田官兵衛に纏わる話にこんなことがあります。

あるとき、秀吉が家来たちにふざけ半分でこう言った。「自分が死んだら、代わって天下を保つのは誰か?遠慮なくいってみよ」。家来たちは、当時実力が喧伝 されていた前田利家、徳川家康などの名を口にしたが秀吉は頭を横に振って答えた。

「違う。それは、あの黒田官兵衛だ」「しかし彼はたかだか10万石の大名。とても天下人になどにはなれないのでは」と家来がいう。そこで秀吉は言った。「自分はこれまでの合戦で、あれやこれや決めかねたことも多い。そんなとき官兵衛に尋ねるとたちどころに裁断し、自分が練りに練った 考えと一致していた。

ときにはワシの意表をつく考えさえ何度かあった。あの男の心は剛穀で、思慮深く、まさに天下に比類ない。彼が望むなら、いますぐにで も天下を譲るだろう」。これを伝え聞いた官兵衛は、「これはわが家の災いの元」とつぶやき、剃髪して黒田如水と改名したのです。

秀吉のこの手の話は、百万の軍の指揮をとらせてみたいといった大谷吉継や蒲生氏郷にもありますが、我が子秀頼の将来を考えた秀吉にいずれの日か滅ぼされるかもしれないと危惧し、あっさりと剃髪・隠居をしてしまった黒田官兵衛の凄さがあるわけです。

そしてその凄みは隠居後も衰えることなく、秀吉死後、天下は東西に分かれるわけですが、官兵衛は東西の争乱に乗じ、自ら九州を統一し、その勢いにのって中央で三成、家康と対峙しようという大志を抱くのです。

官兵衛の息子・長政が家康側に加担したため、東軍として九州制圧に乗り出し連戦連勝の勢いでしたが、結果は抱いた大志通りにはいかなかったのです。それは関ヶ原の合戦が一日で終わり、天下が徳川家康のものになってしまったからです。

そこでもこんな話が伝えられています。関ヶ原の戦いで東軍が勝ち、手柄を立てた長政が官兵衛にむかって、「家康公は我が手を取って、頭に押しいただき、『この勝利はひとえ に御辺のおかげでござる』と申されました」と得意気に報告した。

その長政に、官兵衛は、「家康公が押しいただいた手は右か左か」と聞き返したという。不思議な問いにまごつきながら、長政が「右手でありました」と答えると、官兵衛は「その時、おまえの左手は何をしていたのか」。長政は思わず絶句した。

空 いているほうの手で家康を刺し殺すことができたのではないのか、という意味だったからです。結果として、関が原の合戦の論功にも官兵衛の名は挙がらず、恩賞はなかったのです。それは家康が官兵衛の実力を恐れたからだといわれています。

誰もがその才を認め、その才を決して隠そうとはしなかった黒田官兵衛ゆえ、疎んじられて出る杭は打たれたのでしょう。「能ある鷹は爪をかくす」のもこの時代の賢い生き方だったかもしれません。