会長の”三行日記”

2016.07.15

ちょっと良い話130 No.2868

 挨拶には不思議な力があるという、ちょっと良い話を見つけました。とかく日本人は外人に比べて挨拶が下手だと指摘しています。袖擦り合うも多生の縁という言葉もあるとおり、人との触れ合いを大切にしたいものです。ではちょっと紹介させて下さい。

全然未知の間柄にも、言葉の通じない相手にも、ひとことの挨拶は、その心を開かせる力を持っている。海外に出かけた時など、まず旅先の国の挨拶の言葉を覚え、片言交じりの挨拶をすると、いかめしい顔をした人もにっこり顔をほころばせて、挨拶してくれる。

旧知の間では、さわやかなひとことの挨拶によって、昨日の感情のしこりが解けるだけでなく、こうした場合、先に挨拶したほうが勝ちで、挨拶された側は挨拶の遅れたことにうしろめたさを感じ、相手を自分よりもひとまわり大きな人物のように感じることは、どなたにも経験のあることと思う。

このように不思議な力を持っている「挨拶」なのに、日本人はどうも挨拶がへたである。どうしたわけだろう。遊牧民族は、水や牧草を求めて家畜とともに移動し、幾日も幾日も人に会うことがない。それだけに親しい友に会ったときは、握手し、抱きつき、キッスして、出会いのよろこびを全身で表現する。

こうした習慣を永年にわたって積み上げてきた西洋人であれば、挨拶が上手になるのは当然のことである。これに比べ、朝から晩まで、昨日も今日も明後日も、顔をつき合わせている農耕社会に育ってきた日本人には、人に会うことの感激がない。

感激がないので、挨拶の仕方も上達せず、その結果はたいへん損をしている。ひとことの挨拶により、その人が、その家族が、その企業が、大きくいえばその国が、それなりの評価を受けるのである。挨拶のへたな日本人であればあるほど、挨拶には充分意を用いたいものである。

ところで、この「挨拶」、実は禅語である。“挨”は積極的に迫って行くこと、“拶”は切り込んでゆくことである。修行者が師家(指導者)に問題を持ちかけて答えを求め、または、師家が、あるいはお互い同志が、問答を交してその力量を計ることで、挨拶は禅家の真剣勝負である。

さて、禅家の挨拶といっても、挨拶である以上、何も特別なものではない。私どもの日常生活における場合と同じく、身近な事象をとらえておこなわれる場合が少なくない。極端にいえば、「おはよう」「こんにちは」の一言で、相手の心の琴線に触れるのである。そのような心のこもった挨拶ができるよう、精進したいものである。

近頃、毎朝の散歩でオ-トバイに乗った、ある新聞配達のおじさんに会います。このおじさんがとても素敵な笑顔で会うたびに気持ちの良い挨拶をしてくれます。そうするとこのおじさんに会うのが楽しくなるわけです。ただの挨拶でもこのように楽しくなれば価値あることではないでしょうか。